第2話
入学から一週間。僕の日常は「監視」と「解析」に塗りつぶされていた。学園のネットワークをハッキング……とまではいかないが、前世の知識をフル活用し、冷泉トオルの行動パターンを割り出している。
「紫音くん、お弁当交換しよ?今日は紫音くんの好きな唐揚げ、多めに入れたよ」
昼休み。屋上の隅、僕が「安全」と判断した場所で、琴音が弁当箱を広げる。
彼女の笑顔は相変わらず眩しい。……けれど、その指先には、いくつもの小さな絆創膏が貼られていた。
「琴音、その手……どうしたんだ?」
「え? ああ、これ? ……紫音くんにおいしいって言ってほしくて、昨日、夜中まで練習しちゃった。包丁、ちょっと滑らせちゃって」
彼女はケラケラと笑うが、その瞳の奥には、どこか追い詰められたような切迫感がある。
僕が「僕だけを見て」と言ったあの日から、彼女は僕の評価に対して異常なまでに過敏になっていた。
「……無理はしないでくれ。僕は、君が隣にいてくれるだけでいいんだ」
「……『だけで』? ……それだけじゃ、ダメだよ。私、もっと紫音くんに必要とされないと、いつか捨てられちゃうもん」
冗談めかした口調。だが、繋いだ手の力が、一瞬だけ骨が軋むほど強くなった。
回避しているはずの「鬱ルート」が、別の、もっと深い闇へと形を変えていく感覚。
その時。
屋上のドアが、乱暴に蹴破られた。
「いたぜ、ネズミ野郎……! よくも俺の推薦を……ッ!」
現れたのは、北条隼人。その後ろには、数人の取り巻きを連れている。北条の目は血走り、顔を怒怒らせている。どうやら僕がバラ撒いた「素行調査書」のせいで、部活動の顧問から相当絞られたらしい。
「北条……。ここは監視カメラの死角だ。暴力に訴えるなら、後悔することになるぞ」
「うるせえ! カメラがなきゃ、証拠も残らねえだろ! てめえのその澄ましたツラ、グチャグチャにしてやるよ!」
北条が突進してくる。僕は想定内だ。ポケットの中のスタンガンを握りしめ、カウンターの準備を――。
――だが、僕が動くより速かった。
「……邪魔しないで」
冷え切った声。琴音が、僕を庇うように一歩前に出る。その手には、先ほどまで弁当を切り分けていた銀色の果物ナイフが握られていた。
「ひっ……!?」
北条の足が止まる。琴音の表情には、怒りも恐怖もない。ただ、自分の聖域を汚されたことへの、絶対的な拒絶だけがあった。
「紫音くんと私の、大事な時間なの。消えてよ。……次に来たら、本当に、殺しちゃうよ?ねー、紫音くんっ!」
一歩、琴音が踏み出す。その「本気」の気迫に、屈強なラグビー部員たちが気圧され、たじろいだ。
「こ、この女、狂ってやがる……! おい、行くぞ!」
北条たちは捨て台詞を吐いて逃げ去っていく。僕は、呆然とその背中を見送り……そして、目の前の少女の震える肩を見た。
「琴音……!大丈夫か? あんな危ない真似……」
「……紫音くん。……私、守れたかな。……紫音くんのこと、守れた?」
ナイフを地面に落とし、琴音が僕の胸に飛び込んでくる。
彼女の体はガタガタと震えていた。だが、その腕は僕の背中に回され、まるで獲物を捕らえた蜘蛛のように、逃がさないという意思で固められていた。
「あはは……。紫音くんが私を守ってくれるから、私も紫音くんを守るの。これで、お相子だね。……もう、誰にも邪魔させない。……ねえ、そうでしょ?」
僕は、彼女の頭を撫でながら、戦慄を禁じ得なかった。冷泉トオルを遠ざけるために、僕は彼女を「過保護」にした。してしまった。その結果、彼女は外敵を排除するための「狂気」を自ら身に纏い始めてしまった。
ふと、階下の渡り廊下を見下ろすと。そこには、こちらを見上げて優雅に拍手をする、冷泉トオルの姿があった。
彼は口の動きだけで、僕にこう告げた。
――『最高だ。その歪みこそ、僕が欲しかったものだよ』
一応、回避したはずのNTRルート。だが、冷泉トオルは「寝取り」の対象を、琴音から、僕たちの「関係性そのもの」へと変えたようだった。
一筋縄ではいかない。僕が必死に築いた防衛線は、内側からも外側からも、少しずつ、確実に、崩壊を始めていた。
◇◆◇
琴音がナイフを握ったあの日から、僕たちの関係は「共依存」という名の加速装置に乗ってしまった。
朝、目が覚めるとスマホには琴音からのメッセージが30件。『おはよう、紫音くん。今起きたよね? 心拍数が上がったからわかったよ』
……スマートウォッチのデータ共有。それも、僕が「彼女の不安を取り除くため」に許可したことだ。自業自得という言葉が、苦い後味を残す。
「朝霧くん、おはよう。今日も顔色が優れないようね」
教室に入ると、学級委員の内田アイリが僕の机の前に立っていた。彼女は僕のネクタイの僅かな歪みを指摘し、無機質な指先でそれを直してくる。
「内田さん、おはよう。……自分でやるよ」
「いいえ、乱れは心の乱れよ。あなたがこの学園の『害悪』と戦っているのは知っているわ。私は、あなたのその高潔な意志を支持する。……だから、もっと私を頼りなさい」
眼鏡の奥の瞳が、獲物を定める爬虫類のように細められる。彼女は僕が北条を嵌めたことを「正義」だと信じ込んでいる。その潔癖すぎる称賛が、僕には冷泉の悪意よりも恐ろしかった。
「紫音くん! ……その人、誰?」
教室の入り口で、琴音が凍りついた声を出した。彼女の手には、二人分の弁当袋が握られている。その指が、白くなるほど強く紐を締め上げていた。
「ああ、水瀬さん。私は学級委員として、朝霧くんのサポートをしているだけよ。……あなたは少し、彼にべったりしすぎじゃないかしら? 彼の可能性を狭めているわよ」
「……殺す。……アイツ、絶対に殺す……」
琴音の口から漏れたのは、およそ美少女には似つかわしくない呪詛だった。マズい。嫉妬が琴音をさらに「重く」させる。
――だが、混乱はそれだけでは終わらなかった。
「あらあら、朝霧紫音。こんなところで女の取り合いかしら? 庶民は相変わらず卑しいわね」
廊下から取り巻きを引き連れて現れたのは、麗日リオナ。彼女の背後には、あの冷泉トオルが皮肉な笑みを浮かべて立っている。
「麗日さん……。何の用だ?」
「トオルが言っていたわ。『君を屈服させるのは、僕よりもリオナの方が向いているかもしれない』ってね。……興味が湧いたわ。私、躾のなっていない野良犬を飼い慣らすのが趣味なの」
リオナが僕の顎を扇子でクイと持ち上げる。その瞬間、教室の温度が数度下がった。琴音の「独占欲」、アイリの「潔癖な崇拝」、リオナの「支配欲」。
そして、全てを後ろで操る冷泉の「娯楽」。僕は、琴音をNTRルートから守るために「僕だけを愛するように」と彼女を導いた。
けれどその結果、僕は自分自身を、逃げ場のない「欲望の十字路」に立たせてしまったのだ。
「紫音くん……。あんな女たちのところに行っちゃダメ。……私、お部屋の鍵、新しく買ってきたんだ。……ねえ、今日、家に来てくれるよね?」
琴音が僕の背中にしがみつき、耳元で囁く。その声は、甘く、そして逃れられない監禁宣告のように響いた。
一筋縄ではいかない。僕が守りたかった平穏は、僕自身の打った布石によって、粉々に砕け散ろうとしていた。




