第1話 救済は毒のように
桜の花びらが、血の色の混じった泥のように地面へこびりついている。私立法隆青山学園。政財界の子息が通う、この気取ったエスカレーター式の学び舎が、かつて僕――春野陽太を死に追いやった鬱ゲー『忘却のセレナーデ』のメインステージだ。
校門をくぐった瞬間、視界が歪んだ。前世の記憶が、濁流となって脳を焼き切るような痛みと共に溢れ出す。
この学園で、僕は僕の最愛を失う。信じていた幼馴染は、金と権力と巧妙な精神支配によって、僕の目の前で他の男に跪く。その時の、彼女の濁った瞳。絶望し、廃人となった僕を嘲笑う男たちの声。
そのあまりの苦痛に耐えかね、モニターを殴り、外へ飛び出した僕を撥ねた大型トラックのヘッドライト――。
「……はあ、はあ……っ」
「紫音くん? どうしたの、急に立ち止まって。顔色が悪いよ?」
隣で僕の袖を掴んでいる少女、水瀬琴音が不安げに覗き込んできた。清楚な制服に身を包んだ、まだ「汚れ」を知らない琴音。その細い指先、柔らかそうな唇。僕の、唯一の光。
(……ああ、そうだ。僕は、朝霧紫音になったんだ)
記憶が完全に融合する。僕は今、その地獄の入り口に立っている。そして今日は、この学園の頂点に君臨する怪物、冷泉トオルと琴音が最悪の出会いを果たす日だ。
「なんでもないよ、琴音。少し……これからのことを考えていただけだ」
「これから? もう、高校生なんだもんね。なんだかドキドキしちゃう」
琴音は無邪気に笑う。その無防備さが、原作では「隙」となった。冷泉は、この純粋さを踏みにじることに、至高の喜びを感じるサイコパスだ。
「琴音。いいかい、これから言うことをよく聞いてほしい」
「え、なに? 急に真面目な顔して」
僕は彼女の両肩を掴んだ。少し指先に力が入りすぎていたかもしれない。琴音が小さく「あっ」と声を漏らす。
「この学園には、君を傷つけようとする悪魔が何人もいる。だから、僕が許可した相手以外とは、口を利かないで。連絡先も教えないで。……いい? 僕だけを、見ていればいいんだ」
普通の女子高生なら、ドン引きするような台詞だ。だが、今の僕には、引かれることを恐れる余裕なんてなかった。
NTRルートの回避条件は、徹底的な隔離。そして、害悪の排除だ。琴音は驚いたように目を丸くしていたが、やがて、その瞳に見たこともない暗い熱が灯った。
「紫音くん……。それって、私を独り占めしたいっていうこと?」
「……そうだ。誰にも、指一本触れさせたくない」
狂気じみた僕の言葉に、彼女は頬を上気させ、潤んだ瞳で僕を見つめ返した。
「ふふ、嬉しい……。私、紫音くんがそう言ってくれるのを、ずっと待ってたのかも」
……何かが、おかしい。原作の琴音は、もっと主体性がなく、流されやすい性格だったはずだ。
けれど今の彼女からは、僕の執着を全力で飲み込み、自ら同化しようとするような、感情が伝わってくる。
だが、僕はそれを「好都合」だと判断してしまった。彼女が僕に依存すればするほど、冷泉の付け入る隙はなくなるはずだ、と。
入学式が終わった後の放課後。僕は、最初の「チェックポイント」へ向かった。新入生歓迎の喧騒から離れた裏校舎の渡り廊下。そこでは、予定通り「事件」が起きていた。
「おいおい、そんなに怯えるなって。ちょっと連絡先教えてくれるだけでいいんだよ」
女子生徒を壁に追い詰めているのは、北条隼人。ラグビー部期待の新人という肩書きを持ちながら、中身は冷泉トオルの忠実な「番犬」だ。
原作では、彼が女子を脅し、そこに颯爽と冷泉が現れて救い出すという自作自演の「吊り橋効果」が、琴音を堕とす第一歩だった。
今、北条に絡まれているのは、後に僕の協力者となるはずの五十嵐結衣だ。
「しつこいって言ってるでしょ。アンタみたいな脳筋、タイプじゃないの」
「あ? 生意気な女だな……少しお仕置きが必要か?」
北条が結衣の手首を掴み、力任せに引き寄せようとした。本来ならここで冷泉トオルが登場する。だが、僕はその演出を、根底から破壊することに決めていた。
「北条隼人。……暴力は、推薦入学の取り消しに十分な理由になると思うけど?」
僕は平然とした足取りで、彼らの間に割って入った。
「あ? 誰だてめえ、あ?朝霧……? なんだ、特待生の陰キャかよ。引っ込んでろ、ぶち殺すぞ」
北条が威圧的に胸ぐらを掴もうとしてくる。僕はそれを避けることもせず、スマートフォンを彼の目の前に突きつけた。
「今、君のその発言と、女子生徒への暴行未遂をリアルタイムでクラウドに保存している。僕の心拍数が一定以上に上がるか、この端末が破壊されれば、即座に教育委員会とメディアに匿名で送信される仕組みだ。君、スポーツ推薦だったよね? 人生終わるよ?」
北条の動きが止まる。冷泉のような知能犯と違い、北条のようなタイプには「即時的な破滅」を突きつけるのが一番効く。
「て、てめえ……ふざけんなよ……!」
「ふざけているのは君だ。……あと、後ろ。誰か来てるよ」
北条が振り返る。そこには、優雅な微笑を浮かべた美男子――冷泉トオルが立っていた。
「隼人、そこまでにしなよ。新入生に無作法をするもんじゃない」
「れ、冷泉さん……。いや、こいつが……!」
冷泉は北条を無視し、僕をじっと見つめてきた。蛇に睨まれた蛙。普通ならそう感じるほどの圧迫感。
けれど、僕は笑った。前世で、この男にどれだけ殺意を抱いたか。その復讐が、今、ここから始まるのだ。
「君、面白いね。朝霧紫音君、だったかな。そんなに死に急いでどうするんだい?」
「死に急いでいるのは、僕の方じゃない。……冷泉トオル、君だ」
冷泉の眉が、わずかにピクリと動く。周囲の空気が凍りつくのが分かった。助けられたはずの五十嵐結衣が、唖然として僕を見ている。
「……ふん。いいだろう、名前は覚えたよ。青山学園での生活、楽しみにしているといい」
冷泉はそれだけ言うと、北条を引き連れて去っていった。
最悪の敵に目をつけられた。だが、これでいい。琴音への「興味」を僕へと逸らす。それが第一段階だ。
「……紫音くん」
背後から、声がした。いつの間にか、琴音がそこに立っていた。彼女は、僕が冷泉と対峙していた一部始終を見ていたらしい。
「あんな怖い人と、私のために喧嘩したの……?」
「琴音、いつからそこに……」
琴音はゆっくりと歩み寄り、僕の腕を両手で強く抱きしめた。その力は、以前よりもずっと強く、執拗だった。
「わかったよ、紫音くん。私、もう決めた。紫音くんが私のために世界を敵に回すなら、私も、紫音くん以外の全てを捨てるね」
彼女の瞳には、先ほどよりもさらに濃い、漆黒の情念が渦巻いていた。それは、守られる側の顔ではなかった。
「ねえ、紫音くん。……ずっと私だけを監視して。ずっと、私だけを縛ってて。お願い……」
僕は背筋に、冷たい氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。回避したはずの「鬱ルート」が、形を変えて、僕たちを飲み込もうとしている。
――鬱ゲーの強制力か、それとも僕の行動が招いた必然か。こうして、僕と彼女の、歪な「安全圏」での生活が始まった。
──Fate:other if story




