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NTRから始まる鬱ルートを回避するのに必死過ぎて、ヒロインが激重感情を持ち始めた話  作者: アルファベータ
蛇足編

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23/25

ifルート:②

 冷泉家という巨大な帝国が、一夜にしてこの世界から消えた。それは爆発のような華々しい最後ではなく、糸が切れた操り人形が泥に沈むような、静かで徹底的な「消去」だった。アイリが資産を凍結し、リュカが戸籍を抹消し、レナが物理的な抵抗勢力を排除した。

 

 世間では大規模なシステム障害や不審な連続事故として処理されたが、その実態を知る者は、今やこの「聖域」の外には存在しない。


 だが、唯一の計算違い。


 それは、少女たちが「不要な不純物」として戦場に放置した、九条シキという名の欠陥品だった。


「……紫音くん、見て。お庭に咲いたお花、綺麗でしょう?」


 箱庭の窓辺。特殊なプロジェクターが映し出す「偽物の春」を背に、琴音が紫音の膝に顔を埋めている。紫音の瞳は、以前にも増して虚ろだった。多幸感を強制する薬物と、アイリによる催眠暗示の反復。彼の精神は、薄い硝子細工が粉々になった後のように、キラキラとした断片となって、この部屋の空気の中に霧散していた。


「……あ、あ……。はな……きれいだね……」


 紫音の指先が、琴音の髪を力なく撫でる。その動きは、プログラムされたロボットのように規則正しく、そこに意志は介在しない。


 琴音はその「無機質な慈愛」にさえ、狂おしいほどの悦びを感じていた。彼女にとって、紫音が自らの意志で自分を拒絶するくらいなら、意志そのものを失って自分を優しく撫で続ける「モノ」になる方が、遥かに幸福だったのだ。


「……紫音くん。……アイリちゃんから、新しいスケジュールが届いたよ」


 部屋の隅で、リュカが端末を操作しながら呟く。彼女の周囲には、無数の浮遊型ドローンが待機し、聖域の全方位を監視している。


「……午後は、レナちゃんとの『リハビリ』。……夜は、アイリちゃんの『教育』。……私は、その間ずっと……紫音くんの心音を、録音しておくね……?」


「……ええ。彼を、一秒も独りにしてはいけないわ」


 扉が開き、アイリが入室してくる。彼女の手には、銀色のトレイに載った注射器があった。紫音が拒絶の言葉を吐くことはもうない。彼は、アイリが自分の腕に針を刺し、冷たい液体が血管を巡る感覚さえも、心地よい「神の祝福」として受け入れるよう、調教されていた。


「――っ! アイリさん、リュカ! 外周警戒網に突破口!!」


 スピーカーから、レナの切迫した声が響く。


「何事? 冷泉の残党は全て処理したはずよ」


「違う……、これは、人間じゃない……。もっと、何というか……『機械』みたいな動きで……っ!」


 次の瞬間、聖域を揺るがす轟音が響いた。


 プロジェクターが映し出していた「偽物の春」がノイズと共に消え、無機質なコンクリートの壁が剥き出しになる。


 そこには、一人の少女が立っていた。


 九条シキ。


 だが、その姿は紫音の記憶にある彼女とは似ても似つかなかった。冷泉アラタが施した最後の「調整」。それは、人格を完全に破壊し、対象を殺すためだけに特化した、文字通りの『掃除屋』への成れの果て。


 彼女の四肢には、筋力を強制的に引き上げるための外装式人工筋肉が装着され、その瞳には、かつての悲哀さえも残っていない。


「……ターゲット:朝霧紫音。および、随伴する障害物……五名。……排除を開始する」


 シキの声は、合成音声のように平坦だった。彼女の手には、高周波で振動する漆黒のブレードが握られている。


「……ふふ、あははは!!」


 琴音が、紫音を守るように立ちはだかった。彼女の手には、あの、紫音に突きつけられたナイフがある。


「ゴミが。……紫音くんを救いに来たつもり? ……それとも、壊しに来たの? ……どちらにせよ、遅すぎるよ。紫音くんは、もう、私たちの『夢』の中にいるんだから」


「……邪魔。……処理する」


 シキの体が、物理法則を無視した加速で跳ねた。

 

 戦闘は、かつてのどの戦いよりも残酷だった。レナが、重力制御を無視したような蹴りで応戦し、アイリが電子妨害でシキの人工筋肉をショートさせようとする。リュカのドローンが自爆特攻を繰り返し、琴音がその隙を突いて心臓を狙う。


 だが、九条シキという「亡霊」は、自らの肉体が崩壊することさえ計算に入れた攻撃を繰り出した。


「がっ……あぁぁぁッ!!」


 レナの右腕が、シキのブレードによって肩から斬り飛ばされた。鮮血が、紫音の頬に飛ぶ。


「……あ、あ……? ……あか……い……」


 紫音は、自分を囲んで行われている惨劇を、まるでテレビの中の出来事のように眺めていた。脳内の多幸感回路が、「痛み」や「恐怖」を認識することを拒んでいる。


「……レナちゃんッ!! ……死ね、死ね死ね死ねぇッ!!」


 琴音が狂ったようにシキに飛びかかる。

 シキのブレードが、琴音の脇腹を深く裂く。

 

 それでも、少女たちは止まらない。


 自分たちが作ったこの「楽園」が、外側から壊されることへの恐怖が、彼女たちを人間以上の「怪物」へと変えていた。


「……アイリ。……バイオハザード、プロトコルを……。……紫音くんごと……私たち……消えよう……?」


 リュカが、血に濡れた指で、部屋の中央にある緊急停止スイッチに手をかける。

 もし、紫音を外の世界に奪われるなら、いっそこの空間ごと、塵に還す。それが、彼女たちの考える「究極の守護」だった。


「……いいわね。……朝霧くん。……最後は、私たち全員で、一つになりましょう」


 アイリが、恍惚とした表情で紫音の首を抱きしめる。彼女の指が、紫音の喉元にある「命のスイッチ」に触れた。


 シキのブレードが、アイリの背中を貫こうと迫る。リュカの指が、起爆キーを押し込もうとする。


 その、地獄の均衡が崩れようとした瞬間。


「……みんな。……ごめん、ね」


 紫音の口から、薬物による多幸感ではない、本物の、震える声が漏れた。砕け散ったはずの精神の、たった一つの欠片。


 「春野陽太」としての、現実への未練。


 それが、強制的に書き換えられた脳の奥底で、一瞬だけ火花を散らした。紫音は、自分の喉元を抱くアイリの腕を、驚くほどの力で振り払った。


 そして、リュカの手にあった起爆スイッチを奪い取り――


「――あ」


 リュカが呆然と声を上げる。


 紫音は、そのスイッチを壁に向かって叩きつけた。

 

「……紫音、くん……?」

 

 琴音が、傷ついた体を引きずりながら問う。

 

 紫音は、立ち上がった。


 足元はふらつき、瞳は依然として濁ったままだ。だが、彼は、目の前で自分を殺そうとしているシキに向かって、ゆっくりと両腕を広げた。


「……おいで。……シキ。……終わらせに……来たんだろ……?」


 その言葉に、シキの「機械の瞳」が、激しく明滅した。 


 エラー。エラー。エラー。

 

 彼女のプログラムには、ターゲットが自ら死を受け入れるという選択肢は存在しなかった。

 

「……紫音くん! 逃げて! そいつは、あなたを殺しに来たのよ!!」

 

 アイリが叫ぶ。

 だが、紫音は笑っていた。

 

「……いいんだ。……アイリ。……このまま、君たちと……嘘の夢を見るのは……もう、飽きたんだ」


 紫音がシキの懐に飛び込んだ。

 

 シキのブレードが、紫音の胸を貫く――。

 

 はずだった。

「……ァ……、ァァ……!!」

 

 シキの動きが止まった。


 彼女の人工筋肉が、激しい火花を散らしてショートする。


 紫音の「温もり」が、彼女を殺人マシンとして繋ぎ止めていた冷泉のコードを、物理的な熱量で焼き切ったのだ。

 

 崩れ落ちるシキを、紫音は優しく抱きとめる。

 

「……九条、さん……。……やっと……会えたね」

 

 それは、Ifルートにおいて初めて紫音が自分の意志で成し遂げた、「救済」の形だった。

 

 だが、それを見た五人のヒロインたちの瞳から、ついに一切の「人間性」が消失した。

 

「……そう。……そうなんだね、紫音くん」

 

 琴音が、血塗れのナイフを逆手に持ち直す。アイリが、隠し持っていた拳銃の銃口を、紫音の眉間へ向ける。

 

「……私たちの愛より、その壊れたガラクタを選ぶのなら。……あなたは、私たちの手で、完全に『固定』しなきゃいけない」


「……紫音くん。……壊して、あげる。……誰にも、渡さない……」


 楽園の崩壊。

 救われた亡霊と、怪物になった聖女たち。

 

 紫音は、意識が途切れる直前、かつて前世で読んだ『忘却のセレナーデ』の隠しエンディングの一節を思い出していた。

 

 ――『神が楽園を捨てた時、残された天使たちは、世界を食らう獣となる』と。



◇◆◇


 聖域の静寂は、硝子が粉々に砕けるような音と共に、修復不可能な「戦場」へと塗り替えられた。


 紫音は、自分を刺そうとして動かなくなった九条シキの細い身体を抱え、震える足で立ち上がった。胸元にはアイリに突きつけられた銃口、背後には狂乱する琴音の殺気。かつて自分を愛し、守ると誓った少女たちの瞳は、今や深淵よりも暗い独占欲に塗りつぶされている。


「……紫音くん。どうして、その『ガラクタ』を離さないの?」


 琴音の声は、あまりに穏やかで、だからこそ毛羽立つような恐怖を呼び起こした。彼女の脇腹からはシキに刻まれた鮮血が滴り、純白のドレスを無慈悲に汚している。だが、彼女はその痛みさえも「紫音への愛の証」として陶酔しているようだった。


「……彼女は、もう自由なんだ。君たちも、僕も……こんなことは、もう終わりにしよう」


「終わり? ふふ、何を言っているの。……これから始まるのよ。不純物が混じったなら、もう一度煮詰めて、純粋な愛に戻すだけ。……朝霧くん。その子を離しなさい。そうすれば、あなたの『指先』だけで許してあげるわ」


 アイリの指が、引き金にかけられる。彼女の冷徹な計算によれば、紫音の命を奪わない程度に四肢を破壊し、物理的に移動能力を奪うことが、現時点での「最適解」だった。


「……嫌だ。……もう、誰の言いなりにもならない」


 紫音は、意識のないシキを背負い、剥き出しになった壁の亀裂――シキが侵入してきた破壊痕へと向かって走り出した。薬物の残滓で意識は朦朧とし、肺は焼けるように熱い。けれど、背中に感じるシキの微かな心音だけが、彼を現実へと繋ぎ止めていた。


「逃がさないよ。……紫音くん、逃げたら、私……あなたの足の腱を切らなきゃいけなくなる。そんなの、悲しいじゃない!!」


 琴音が、獣のような速さで床を蹴った。


「……リュカ! 施設内の全隔壁を閉鎖! 重力トラップを起動しなさい!!」


「……了解。……紫音くん……ごめんね。……痛いの、一瞬だから……」


 アイリの叫びに呼応し、リュカが血に濡れた指でキーを叩く。紫音の目の前で、重厚な鋼鉄のシャッターが轟音と共に降り始める。


「――っ!!」


 紫音は、閉まりきる直前の隙間に、滑り込むようにして飛び込んだ。背後で、琴音のナイフがシャッターの表面を削り、火花が散る。

 閉ざされた通路。赤い非常灯だけが回転し、狂った鼓動のように廊下を照らしていた。


「ハァ、ハァ……っ! 九条、さん……起きてくれ……!!」


 紫音は、廊下の隅でシキを降ろした。彼女の人工筋肉はショートし、銀色の冷却液が傷口から漏れ出している。だが、紫音の声に反応したのか、彼女のまぶたが微かに震えた。


「……ターゲット……朝霧、紫音……。……なぜ、殺さない……?」


「……僕は、誰も殺したくないんだ。君も、……あのみんなも」


「……理解不能。……九条シキは、兵器。……不要な、ガラクタ。……廃棄、されるべき……」


 シキの瞳に、初めて「迷い」という色の光が宿った。殺すために作られた自分が、殺されるべき対象に救われている。その論理矛盾エラーが、彼女の脳内に残されていた微かな「人間としての九条シキ」を呼び覚まそうとしていた。


「廃棄なんてさせない。……一緒に行くんだ。この、狂った箱庭から外へ」


 紫音がシキの手を握った、その時。


 頭上のスピーカーから、ノイズ混じりのアイリの声が響いた。


『……朝霧くん。聞こえる? ……あなたが今いるエリアの酸素供給を、今から3分後に停止するわ。……苦しむ前に、そこにあるインターホンで「降伏」を宣言しなさい。……そうすれば、また温かいベッドに戻れるわ』


 逃げ場のない、死の宣告。


 アイリは、紫音の「生存本能」に訴えかけていた。呼吸ができなくなり、死の恐怖に直面すれば、彼は自らこちらの腕に飛び込んでくるはずだ。


「……っ、アイリ……!!」


『……大好きよ、朝霧くん。……あなたの絶望する顔さえ、私には愛おしいの。……さあ、カウントダウンを始めましょうか』


 廊下の空気が、急速に薄くなっていく。


 紫音は意識が遠のき、膝をついた。背負っているシキの呼吸も、浅くなっていく。


「……紫音、様……。……私を、使って……」


 シキが、震える手で紫音の胸ぐらを掴んだ。


「……私の、胸部にある……緊急、非常、動力……。……それを、過負荷で、爆発させれば……。……外壁に、穴が、開く……」


「……何、を……。そんなことしたら、君は……!!」


「……私は、ガラクタ。……でも、最後だけ……誰かの、盾に、なれるなら……。……プログラムに、ない……『幸福』……」


 シキの唇が、微かに微笑みの形を作った。


 彼女は、自分を犠牲にして紫音を外へ逃がそうとしていた。それが、冷泉でも九条でもない、彼女自身が選んだ初めての意志。


 だが、それを許さない影が、廊下の天井から音もなく舞い降りた。


「――見ぃつけたぁ」


 レナだった。


 右腕を失い、止血帯を巻いた凄惨な姿。だが、その左拳に込められた殺気は、以前の比ではなかった。


「……先輩。……私、右腕を失って気づいたんです。……守るための手なんて、一本あれば十分。……それより、先輩を閉じ込めておくための『檻』の方が、ずっと大切だってこと」


「レナ……っ!!」


「そのガラクタと一緒に、消えちゃってください。……先輩の『心』だけ、私たちが一生、大切に飼ってあげますから!!」


 レナの左拳が、空気の壁を砕くような音を立てて放たれた。

 

 酸素の欠乏。迫り来る最強の守護者。そして、自らを犠牲にしようとする亡霊。

 紫音の「If」の物語は、最悪の晩餐会へと招待されていた。


「――離せぇぇッ!!」


 紫音は、足元に落ちていた消火器を、レナに向かって叩きつけた。物理的な威力はない。だが、その中に込められた「拒絶」の意志が、一瞬だけレナの動きを止めた。


「……シキ!! やるんだ!! 爆発じゃない……、過負荷のエネルギーを、その拳に乗せろ!!」


「……了解。……オーバーロード。……実行」


 シキの右腕が、青白い放電と共に膨れ上がる。彼女は、自分の命を散らすのではなく、紫音の言葉に従い、共に道を切り開くことを選んだ。


 ドォォォォォンッ!!!


 廊下の突き当たり、分厚い鋼鉄の壁が、シキの命を削るような一撃によって消し飛ばされた。

 

 外の風が、室内に流れ込む。

 夜の冷たい空気。そして、遠くに見える街の灯り。

 

「……っ、逃がさない……ッ!!」

 

 レナが叫びながら飛び込もうとするが、爆発の衝撃で崩落した瓦礫が、彼女の進路を塞いだ。

 

 紫音は、シキを抱きかかえ、崩れ落ちた壁の外――高度数十メートルの非常階段へと飛び出した。

 

「ハァ、ハァ……!! ……出られた……。本当の外に……!!」

 

 だが、そこはまだ、彼女たちの手の届く範囲だった。ビルの屋上から、無数のサーチライトが紫音を照らし出す。


『……無駄よ、朝霧くん。……この街の全ての監視カメラ、全てのネットワークは私の支配下にある。……あなたがどこへ逃げようと、世界はあなたにとっての『檻』でしかないの』


 アイリの冷たい声が、夜空に響き渡る。

 

 逃走劇の始まり。


 救われたはずのヒロインたちは、今や紫音を狩るための「獣」となり、夜の街へと解き放たれた。

 

 紫音は、腕の中で熱を発するシキを強く抱きしめ、暗闇の中へと駆け出した。

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