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NTRから始まる鬱ルートを回避するのに必死過ぎて、ヒロインが激重感情を持ち始めた話  作者: アルファベータ
蛇足編

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22/25

ifルート︰①


 病室に、重く冷たい静寂が落ちていた。冷泉アラタが提示した一週間の猶予。本来の物語であれば、紫音はここで九条シキを救うために立ち上がり、彼女たちの「愛という名の監禁」を甘んじて受け入れることで地獄の最上階を目指したはずだった。


 だが、紫音の心の中で、何かが決定的に摩耗していた。


「……紫音くん。お水、飲む? それとも、少し眠る?」


 琴音が、至近距離から僕の瞳を覗き込む。その瞳は、回復しているはずなのに、どこか焦点が合っていない。僕を、自分を繋ぎ止めるための「モノ」としてしか見ていないような、陶酔しきった輝き。


(ああ、もう……疲れたんだ)


 アキトが去り、アラタが去り、残されたのは僕を「自分たちの所有物」として争う五人の美しき怪物たち。彼女たちは僕を愛していると言う。僕を守ると言う。けれど、その指先が僕の肌を掠めるたび、僕は自分が、精巧に作られた標本箱に閉じ込められた蝶になったような錯覚を覚える。


「……琴音。みんな」


 僕は、掠れた声で彼女たちを呼んだ。アイリがタブレットの手を止め、レナが護衛の姿勢を解き、リュカが端末から顔を上げる。シキを監視していたアキトの姿はもうない。ここには、僕と、僕を食らい尽くそうとする「愛」の化身たちしかいない。


「どうしたの、朝霧くん? 気分が悪いなら、すぐに専属の医師を呼びつけるけれど」


 アイリが完璧な秘書のような所作で歩み寄る。だがその足取りは、僕が逃げ出さないよう、逃げ道を塞ぐためのチェスの駒のような冷徹さを含んでいた。


「……僕は、九条シキを救わない」


 その一言が、爆弾のように病室に炸裂した。五人の時間が、物理的に凍りついた。


「……え? 紫音くん、何を……」


 琴音の笑顔が、パキリ、と音を立てて崩れる。


「九条シキを『完成』させて、冷泉家の盾にするなんて、そんなことはしない。冷泉アラタと取引もしない。……僕は、もう、君たちのために戦うのをやめる」


 紫音はベッドの上に体を起こした。ギプスが巻かれた腕が鈍く痛むが、それ以上に、自分の言葉が彼女たちの「設定」を内側から破壊していく感触が、奇妙な高揚感をもたらしていた。


「紫音くん、それじゃあ……あなたは殺されちゃうわ! 冷泉の長男は本物よ。彼に逆らって、生きていられるはずが……!」


 アイリが声を荒らげる。珍しいことだった。彼女の計算、彼女のシナリオから、朝霧紫音という「主人公」が逸脱しようとしている。


「殺されればいいさ。……いや、そっちの方がマシだ。君たちに、一分一秒、呼吸の回数まで管理されながら、この狭い『楽園』で王様を演じ続けるよりは」


 紫音の言葉は、氷の楔となって彼女たちの心臓を貫いた。救われたはずの少女たち。紫音のために手を汚し、紫音のために狂気に身を沈めた彼女たちにとって、その言葉は存在意義の否定に他ならない。


「……先輩。……私たちが、嫌いになったんですか?」


 レナが、絞り出すような声で問う。彼女の拳は震えていた。かつて師範を倒し、最強の守護者として目覚めた紫音を慕う彼女のプライドが、紫音自身の「拒絶」によってズタズタに引き裂かれていく。


「嫌いじゃない。……でも、愛してはいない。……君たちの愛は、重すぎるんだ。僕を殺して、その死体を抱きしめていたいだけだろ? だったら、今ここでやってくれよ。冷泉アラタに殺される前に、君たちの手で、僕をバラバラにすればいい」


 紫音は、琴音の腰に差されていた護身用のナイフを、自ら抜き取った。そして、その刃を、自らの喉元に突き立てる。


「……ッ!? 紫音くん!!」


「動くな。……動いたら、今ここで切る。……君たちの『最高傑作』が、ただの肉塊になる瞬間を見せてあげるよ」


 紫音の瞳に宿ったのは、かつてないほどの、清々しいまでの「絶望」だった。


 これが、第2の分岐点。


 九条シキを救うために立ち上がるはずのヒーローが、自らの命をチップにして「降板」を宣言した瞬間。


 だが、怪物たちは、それを許さなかった。


「……ふふ、あははは!!」


 琴音が、再び笑い出した。あの日、冷泉アラタの前で見せた狂気とは別の、もっと深くて、暗い、混濁した笑い。


「……いいよ。紫音くん。……そんなに自由になりたいなら、なっていいよ。……でも、死ぬのは許さない」


 琴音が、ゆっくりと紫音に近づく。喉元に突き立てられたナイフの刃先を、彼女は自らの掌で掴んだ。


「――っ!? 琴音、手が……!」


「痛くないよ。……紫音くんが、私のものにならない痛みよりは、ずっとマシ」


 ドロリとした赤い鮮血が、ナイフを伝って紫音の手に溢れる。琴音は血まみれの手で、紫音の首筋を優しく、慈しむように撫で上げた。


「……シキを救わないなら、私たちが奪い取る。アラタも、冷泉家も、この世界も、全部……紫音くんの目に入らないように、全部焼き尽くしてあげる。……あなたは、ただ、ここで見ていて。……私たちが、どれだけあなたを愛しているか。その死体の山を、玉座にしてあげるから」


 アイリが、リュカが、レナが、無言で頷く。紫音の「拒絶」は、彼女たちを「守護者」から「略奪者」へと変質させた。


 ――九条シキを救う物語は、ここで死んだ。代わりに始まったのは、一人の少年の心を繋ぎ止めるために、世界そのものを解体し始める、五人の美しき怪物たちの蹂躙劇。


「……さあ、紫音くん。お薬の時間だよ。……今度は、もっとずっと、深く眠れるやつを、私が飲ませてあげるね?」


 琴音の差し出すコップの中身は、もはや鎮痛剤ではなかった。


 救済を放棄した少年の、長い、長い「夢」への墜落。紫音の意識が遠のく中、病室の窓の外では、冷泉アラタの差し向けた黒服たちが、音もなく消されていく悲鳴が響いていた。



◇◆◇


 深い、深い眠りの底で、紫音は懐かしい夢を見ていた。前世、春野陽太だった頃の記憶。放課後の図書室。少し埃っぽい空気。そして、誰にも期待されず、誰の運命も背負っていなかった、あの凡庸で、けれど何物にも代えがたい「自由」な時間。


 だが、その夢はいつも、耳元で囁かれる甘い吐息によって引き裂かれる。


「……紫音くん。おはよう。今日もいい子だね」


 意識が浮上する。最初に感じたのは、視界を覆う柔らかい闇だった。まぶたを開けようとしても、重い。眼球を動かすことさえ億劫になるほどの倦怠感が、全身を支配している。


「……ぁ……」


 声を出そうとしたが、喉が焼けるように乾いていて、微かな掠れ音しか出ない。ようやく視界が安定してくると、そこが病室ではないことに気づいた。窓はなく、壁一面は吸音材のような柔らかい素材で覆われている。部屋の四隅には、監視カメラのレンズが不気味な赤い光を点滅させていた。


 ここは、かつての僕たちがいた「世界」ではない。彼女たちが僕のために作り上げた、外界から完全に遮断された「箱庭」だ。


「……こと、ね……?」


 枕元に座り、僕の髪を愛おしそうに梳いているのは、琴音だった。彼女の服装は、学園の制服ではない。どこか修道女を思わせる、けれど身体のラインを際どく強調するような、純白のドレス。彼女の指先には、まだあの時の――ナイフを握りしめた時の傷跡が、醜い赤紫の線となって残っている。


「そうだよ、紫音くん。あなたの琴音だよ。……驚いた? ここは、アイリちゃんが手配してくれた『聖域』。冷泉アラタも、九条家も、警察も、誰もここには入ってこれない。……もちろん、あなたがここから出ることもできないけど」


 琴音は、まるで「私の赤ちゃんですよ」と言わんばかりの軽やかさで、僕の監禁を宣言した。


「……他の、みんなは……」


「みんな、忙しいよ。……紫音くんが『戦いたくない』って言ったから、私たちが代わりに戦ってあげてるの。レナちゃんは、冷泉家の私設部隊を一つずつ『解体』してる。アイリちゃんは、冷泉の資産をじわじわと吸い取って、私たちの自由にするための資金に変えてる。リュカちゃんは……ふふ、あの子、最近凄いのよ。ネットワークを通じて、冷泉に関わる人間全員の『人生』を壊して回ってるわ」


 琴音の言葉は、静かな狂気に満ちていた。


 僕が救済を拒絶したことで、彼女たちは「守るべき対象」を、自分たちだけの「祭壇の偶像」へと格上げしたのだ。外の世界がどれだけ血の海になろうと、この部屋の平穏だけを守り抜く。そのための虐殺を、彼女たちは「愛」と呼んで謳歌していた。


「……やめろ。そんなこと、頼んでない……」


「頼まなくていいの。これは私たちの意志。……紫音くん、あなたはただ、ここで可愛くしていればいい。……あ、そうだ。お腹空いたでしょ? 今日はリュカちゃんが、あなたの好きなオムライスを作ってくれたんだよ」


 琴音が手元のトレイを差し出す。そこには、ケチャップで歪な「ハートマーク」が描かれたオムライスがあった。だが、その香りを嗅いだ瞬間、紫音の胃が拒絶反応を起こした。


「……く、薬が……入ってるんだろ」


「……あら。バレちゃった?」


 琴音は少しも悪びれず、スプーンでオムライスを一口分すくい上げた。


「これね、アイリちゃんが特別に調合させたの。あなたの『恐怖』や『焦燥感』を消して、多幸感だけを与えてくれる魔法の薬。……これを食べていれば、あなたはもう、外の世界のことなんて考えなくて済む。……冷泉アラタに殺される怯えも、九条シキへの罪悪感も、全部……真っ白に溶けて消えちゃうんだよ?」


「……食べない。……僕は、死んでも……そんなもの……」


「……食べなきゃダメ。……紫音くんが、またあんな風に自分を傷つけようとしたら、私、今度こそ本当に壊れちゃうから」


 琴音の瞳から、スッと光が消えた。


 彼女はスプーンを僕の唇に押し当てる。逃げようとしても、両手首には皮製の拘束具がはめられており、ベッドのフレームに固定されていた。


「……ん、ぐ……っ」


 無理やり口内にねじ込まれる。甘すぎるケチャップの味と、舌の奥で感じる微かな苦味。飲み込まざるをえなかった。喉を通る熱い塊が、食道を焼いて胃に落ちる。


 数分後。


 視界が不自然に輝き始めた。


 全身の力が抜け、拘束具の食い込む痛みさえも、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。脳内のシナプスが強制的に繋ぎ変えられ、琴音の顔が、この世で最も尊い女神のように見えてくる。


「……あ、は……。こと……ね……」


「そう、いい子。……大好きだよ、紫音くん。……ねえ、アイリちゃんたちが帰ってくるまで、もっと甘えてもいいんだよ?」


 琴音が僕の胸元に顔を埋める。


 彼女の髪の香りが、肺の隅々まで満たしていく。抗わなければならない。このままでは、僕という個性が、彼女たちの狂愛という溶剤に溶かされて消えてしまう。


 だが、薬に汚染された脳は、その「破滅」を最高の快楽として受け入れ始めていた。


 その頃。


 冷泉家の本邸――。


「……何だと。……部隊が壊滅した?」


 冷泉アラタは、モニターに映し出された凄惨な光景を前に、初めてその端正な顔を歪めた。彼が「甘い」と断じたトオルよりも、遥かに合理的で、遥かに苛烈な攻撃。


 冷泉家の情報網は寸断され、電力、水道、ガスといった生活インフラまでもが、目に見えない「指先」によって支配されつつあった。


「……バカな。……朝霧紫音は、九条シキを救うために動くはずだった。……なぜ、奴らは、シキを無視して我々の根絶を最優先している……!?」


 アラタの計算は、紫音が「ヒーロー」であることを前提としていた。敵を倒し、捕らわれのヒロインを救い、正義を成す。その過程で消耗したところを叩く……それが彼の「ゲーム」だった。 


 しかし、今の彼女たちに、正義など欠片もない。朝霧紫音という「心」を自分たちの手で殺し、その抜け殻を守るための、「焦土作戦」。


「――冷泉アラタ。……チェックメイトよ」 


 モニターの映像が強制的に切り替わる。映し出されたのは、返り血を浴びた学園の制服を着たレナ。そして、その背後で、冷徹にキーボードを叩くアイリ。


『……あなたの命に、価値はなくなったわ。……朝霧くんは、もう、あなたを認識することさえない。……彼は、私たちの腕の中で、永遠の安らぎを得たから』


「……貴様ら、狂っているのか……! 自分の主を廃人にして、何が愛だ!」


『……廃人? 失礼ね。……彼は「完成」したのよ。……不純な外界の情報を全て削ぎ落とした、私たちのための純粋な神様にね』


 アイリの不気味な微笑みを最後に、冷泉邸の全てのシステムが「自爆プロトコル」を開始した。


 箱庭の部屋。


 薬の霧の中で、紫音は微かに震えていた。


 扉が開き、アイリたちが帰ってくる音がする。鉄の匂い。血の匂い。硝煙の匂い。それらを身に纏った彼女たちが、僕を囲み、跪き、祈りを捧げる。


「紫音くん、ただいま。……邪魔なゴミは、全部片付けてきたわ」


「先輩。……これからは、誰も先輩を脅かしません。……この部屋が、世界の全てです」


「……紫音くん。……大好き。……ずっと、一緒……」


 五人の手が、僕の身体を這う。


 愛撫、あるいは、解体。

 紫音は、涙を流しながら笑った。


 拒絶したはずの結末より、さらに深い絶望の底。そこは、彼女たちが作り上げた、美しく腐敗した「もしも」の極致。


「……ああ。……きれいだね。……みんな」


 紫音の心が、音を立てて砕け散った。

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