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NTRから始まる鬱ルートを回避するのに必死過ぎて、ヒロインが激重感情を持ち始めた話  作者: アルファベータ
第2部

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最終話 忘却のセレナーデ、未完の追伸

 夕闇に染まる屋上のフェンスが、火花を散らして悲鳴を上げた。暁月ヒナタの右腕は、すでに感覚がない。内田アイリの指示を受けた九条シキの、無機質な打撃を無理やり防いだ代償だ。彼女の手に握られた特殊警棒は、激しい衝撃で歪んでいる。


「……あは、は。やっぱり、この世界の女の子たちは、ちょっと『設定』盛りすぎじゃない?」


 ヒナタは口端から流れる鮮血を、制服の袖で無造作に拭った。彼女を囲むのは、かつての乙女ゲーム『忘却のセレナーデ』のヒロインたち。今や「紫音を守る」という狂気一点において、完璧な連携を見せる五人の美しき怪物たちだ。


「暁月ヒナタ。……あなたの戦闘データ、全て読み切ったわ。心拍、呼吸の乱れ……。あと三回の接触で、あなたの運動機能は完全に停止する」


 アイリが、眼鏡の奥で冷徹に宣告する。彼女の手元の端末は、ヒナタのあらゆる逃走経路を遮断していた。


「先輩を……紫音くんを惑わす毒虫。私が、その羽を毟り取ってあげます!」


 レナの鋭い上段蹴りが、空を切り裂く。ヒナタは地面を転がるようにしてそれをかわすが、そこにはリュカが仕掛けた「デジタルな罠」が待ち構えていた。屋上のスピーカーから、ヒナタの平衡感覚を狂わせる不快な高周波が放たれる。


「……う、ぐっ……!」


 膝をつくヒナタ。その影に、音もなくシキが回り込む。かつての「掃除屋」の指先が、ヒナタの延髄を狙う。


「……排除。朝霧様の安眠を妨げる、不純物」


 だが、その指先が届く直前。ヒナタはありったけの力を振り絞り、左手に握りしめていた「猫のチャーム」を、紫音――朝霧紫音に向かって投げつけた。


「――陽太くんッ!! 見て!!」


 泥と血に汚れた、安っぽい猫のストラップ。それが、紫音の足元でカラリと乾いた音を立てた。紫音は、琴音に抱きしめられたまま、そのチャームを凝視した。脳裏に、この世界の記憶ではない、もっと泥臭くて、退屈で、けれど「生きていた」実感に満ちた映像が奔流となって流れ込む。


『陽太くん、またお昼寝? はい、これ。私のとお揃い。……いいから、付けなさいってば!』


 放課後の、少し埃っぽい教室。夕日に照らされたヒナタの、生意気そうで、けれど本当に優しそうだった、あの笑顔。


「……ぁ……」


紫音の唇が、微かに震える。


「紫音くん、それを見ちゃダメ。……それは、あなたを傷つける呪いだよ」


 琴音が、震える手で紫音の耳を塞ぎ、その目を自らの胸元へと押し付けた。彼女の瞳には、ヒナタへの、殺意を超えた「神への冒涜者」に対する憎悪が宿っている。


「……ねえ、暁月さん。あなた、陽太くんを『連れ戻す』なんて言ったよね? でも、戻ってどうするの? あんな、誰も彼を見向きもしない、冷たい世界に。……ここでは、彼は神様なんだよ。私たちが、彼の一呼吸ごとに愛を捧げる、唯一無二の召使いなんだよ!!」


 琴音が叫ぶ。その声に呼応するように、彼女の背後の影が膨れ上がり、屋上の床にひび割れが走る。


「……そんなの、ただの平和じゃない……!」


 ヒナタが、折れた警棒を杖にして立ち上がった。彼女の制服はボロボロに裂け、白い肌には無数の打撲痕と切り傷が刻まれている。それでも、彼女の瞳だけは、この狂った世界の中で、ただ一つの「現実」を宿して輝いていた。


「あんたたちが言ってるのは、愛じゃない! 自分の寂しさを埋めるための、都合のいい人形が欲しいだけでしょ!? 陽太くんはね……、不器用で、意地悪で、靴紐も結べないようなダメな奴だけど……、それでも、自分の足で歩いて、自分の意志で、誰かを好きになる自由があったんだよ!!」


 ヒナタは、一歩。血を滴らせながら、少女たちの包囲網を歩き出した。


「私はね、陽太くんが大好きだったよ! あんな、オタクでゲームばっかりしてる陽太くんを、あんたたちみたいな『完璧な設定』じゃなくて、生身の、欠点だらけのまま愛してたんだよ!! だから……、連れて帰る。たとえ、あんたたち全員にこの身体をバラバラにされても、彼の魂だけは、あんな嘘っぱちの檻の中に置いていかない!!」


「……黙れッ!!」


 アイリの命令を下す間もなく、五人が同時にヒナタへと襲いかかった。シキの暗器がヒナタの肩を貫く。レナの拳が、彼女の肋骨を砕く。アイリの電磁スタンが、彼女の神経を焼き、リュカの操作する無人機が、彼女の視界を奪う。


そして、琴音が。


 返り血を浴びたまま、かつて紫音を守るために振るったナイフを、今度はヒナタの心臓へと突き立てるべく振り上げた。


「……消えなさい。陽太くんの記憶からも、この世界からも、永遠に!!」


ヒナタは、もう避ける力もなかった。


 視界は真っ赤に染まり、身体は鉛のように重い。けれど、彼女は笑った。


(……ごめんね、陽太くん。私、やっぱり不器用だったかな)


 彼女が最後に見たのは、自分の胸元に突き立てられようとする刃ではなく――、


「――やめろぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」


 自分を「檻」の中から引き剥がし、絶叫しながら駆け寄ってくる、一人の情けない少年の姿だった。屋上の静寂を、激しい雨音が塗りつぶしていく。


 琴音のナイフは、ヒナタの心臓に届く数センチ手前で、紫音の右手に掴まれていた。


「……紫音、くん? どうして……、どうして、その女を庇うの……?」


 琴音の瞳から、大粒の涙が溢れる。その涙は、紫音の手から滴る鮮血と混ざり合い、ピンク色の水滴となってヒナタの頬に落ちた。


「……もう、いいんだ。琴音、みんな……。もう、やめてくれ」


 紫音の声は、震えていた。けれど、そこにはもう「救世主」としての迷いも、「主人公」としての傲慢もなかった。


「……僕は、朝霧紫音じゃない。僕は……春野陽太だ」


 その言葉が発せられた瞬間、世界が激しくグリッチを起こした。アイリのタブレットが火花を散らし、シキが頭を押さえて蹲る。


「ヒナタ。……ごめん。僕、またお前に心配かけたな」


 紫音は、意識が朦混とするヒナタを、壊れ物を扱うようにそっと抱き上げた。


「……お、そい……よ、バカ陽太……」


 ヒナタは、血まみれの指で、紫音の頬に触れた。その温もりだけは、この精巧に作られたゲームの世界の、どんな贅沢な奉仕よりも「生々しく」、そして「重かった」。


「……メロンパン、また半分こしてやるから……。……一緒に、帰ろ……?」


「ああ。……帰ろう、僕たちの世界へ」


紫音がそう告げた瞬間、五人のヒロインたちの叫びが屋上に響き渡った。


「行かせない……! 死んでも、行かせない!!」


「朝霧くん、再計算よ! 戻ったら、あなたはまた『独り』になるのよ!?」


「先輩ッ! 私は、先輩の剣になるって決めたのに!!」


 彼女たちが、絶望に顔を歪めながら紫音の足元へ這い寄る。その姿は、あまりにも美しく、そしてあまりにも哀れだった。


紫音は、彼女たちを一瞥し、そして――、


「……ありがとう。……君たちのことも、僕、本当に大好きだったよ。……でも、僕

は、人間なんだ。神様なんかじゃない」


 紫音は、ヒナタを抱えたまま、屋上のフェンスの外側へ、一歩を踏み出した。背後で、彼女たちの「愛」という名の絶叫が、遠ざかっていく。


落ちていく。


 どこまでも、深く、暗く、けれどどこか懐かしい「現実」の底へ。


「……陽太くん」


「……ヒナタ」


 雨の中、二人の少年少女は、お揃いの猫のチャームを握りしめながら、永遠に続くかと思われた「楽園」から、自由へと身を投げた。目が覚めると、そこは、いつもの図書室だった。窓からは、少し埃っぽい、夕暮れの西日が差し込んでいる。


「……あ……」


 陽太は、自分の机の上で突っ伏して寝ていたことに気づいた。手元には、電源の切れた携帯ゲーム機。画面には、『忘却のセレナーデ』のロゴが薄っすらと反射している。


「……夢……だったのか?」


あまりにも生々しい、血と愛の感触。


陽太が呆然と周囲を見渡すと――、


「――おはよー! 陽太くん、またそんなところでヨダレ垂らして寝てたの?」


聞き慣れた、一番聞きたかった声。


 陽太が勢いよく隣を向くと、そこにはオレンジがかった髪をポニーテールにした少女が、いたずらっぽく笑って立っていた。

彼女の腕には、包帯も、傷もない。


「……暁月……ヒナタ……」


「何その顔! 変な夢でも見た? はい、これ。お詫びにメロンパン、一口あげる」


 ヒナタが、袋から出したばかりのメロンパンを陽太の口元へ押し付ける。

陽太は、そのパンを、震える手で受け取った。


「……あ。……サンキュ」


「……あ、ねえ、陽太くん。……お揃いの、これ。ちゃんと付けてる?」


 ヒナタが、自分の鞄に付いた「猫のチャーム」を揺らしてみせる。陽太は、自分の鞄を慌てて確認した。そこには、あの日、彼女から無理やり渡されたはずの、少し汚れ、けれど確かな重みを持つストラップが揺れていた。


「……ああ。……一生、離さないよ」


「え、何それ! 急に格好つけて! ウケる!」


 ヒナタは顔を赤くして笑い、陽太の背中をバシバシと叩いた。二人の笑い声が、放課後の、何てことのない、けれど世界で一番愛おしい図書室に響き渡る。


陽太は知っていた。


これが、僕が選んだ「本当のハッピーエンド」なのだと。


 窓の外では、今日も変わらず、退屈で、けれど自由な「現実」の夜が、静かに始まろうとしていた。


今までも、これからも。彼らはともに。

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