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NTRから始まる鬱ルートを回避するのに必死過ぎて、ヒロインが激重感情を持ち始めた話  作者: アルファベータ
第2部

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第13話 美しき怪物たちの楽園

 廃ビルの内部は、異常な静寂に包まれていた。緊急用の赤い警告灯が、血の海のように廊下を這い、紫音の影を不気味に引き伸ばしている。


「……紫音くん。行かないで……」


 背後で、アイリの震える声が響く。彼女は、力なく横たわる琴音の体を抱きしめ、その白いブラウスを赤く染めながら、すがりつくような瞳を紫音に向けていた。


 レナは折れた足を自らのネクタイで固定し、壁を伝いながら立ち上がろうとしている。リュカは、手元の端末から流れるノイズに耳を塞ぎ、ただ、紫音という存在が、自分たちの知っている「彼」ではなくなっていく恐怖に震えていた。


紫音は、一度も振り返らなかった。


 彼の手には、琴音が握りしめていた果物ナイフがある。その刃には、琴音自身の血がこびりつき、冷たく光っている。紫音の脳内では、もはや「フラグ」や「シナリオ」といった客観的な計算は消え失せていた。あるのは、一人の少年の理性を焼き尽くす、静かで重い、どす黒い殺意だけだ。


「……九条シキ。どいてくれ」


 紫音の声は、自分のものとは思えないほど低く、平坦だった。その瞳からは一切のハイライトが消え、深い淵のような虚無が宿っている。


 目の前に立つ九条シキは、微かに眉を寄せた。彼女の脳内プログラムは、目の前のターゲットを「負傷した非力な男」と認識している。しかし、その五感が捉える「生存本能」は、かつてない最大級の警戒信号を発していた。


「ターゲット:朝霧紫音。精神状態の異常を検知。……戦闘継続。心停止まで、残り……」


 シキが動いた。一瞬で距離を詰め、最短距離で紫音の眼球を突く指先。


――だが、当たらない。


 紫音は、まるで未来を知っているかのように、首を僅か数センチ横にずらした。そのまま、シキの手首を掴み、その関節を容赦なく「逆に」捻り上げる。


「――っ!? 痛み、遮断……。反撃、開始……」


 シキは表情一つ変えず、自らの手首を折られるがままにし、空いた左手で紫音の喉仏を砕こうとする。


「無駄だ」


 紫音は、シキの左拳が届くより早く、彼女の懐に潜り込んだ。藤沢師範に教わった、重心を奪う「剛拳」ではない。それは、前世で読んだあらゆる「殺人者の描写」を肉体でトレースしたような、急所だけを的確に突く、残酷なまでの最短経路。


ドォォォォンッ!!


 紫音の掌底が、シキの心臓の真上を叩いた。衝撃波が彼女の背中にまで突き抜け、鉄の壁を凹ませる。


「……あ、が……っ」

 シキの口から、鮮血が溢れ出した。彼女の脳内で、冷泉家が植え付けた「服従回路」が、物理的な衝撃によって火花を散らす。


「エラー。……システム、崩壊。……記憶……封印……解除……」


 シキの瞳が激しく左右に揺れ、彼女は頭を抱えてその場に崩れ落ちた。白黒だった彼女の世界に、色鮮やかな、けれど悲痛な「過去」が濁流となって流れ込んでいく。


「お父さん……お母さん……っ! やめて、そこは、暗い……!! 私、いい子にするから……!!」


 かつての「掃除屋」は、今やただの、怯える少女に戻っていた。だが、紫音は彼女を助けに来たはずのその時でさえ、慈悲の心を持てなかった。


 彼はシキの横を通り過ぎ、突き当たりの重厚な扉を、血に濡れた足で蹴り開けた。



◇◆◇



そこは、冷泉アラタの「支配室」だった。壁一面のモニターには、学園、街、そしてこの廃ビルの隅々までが映し出されている。中央のデスクには、高級なワイングラスを手にしたアラタが、まるで映画の特等席に座る観客のように、優雅に脚を組んでいた。


「素晴らしい。素晴らしいよ、朝霧紫音。九条シキという『最高傑作』を、物理的な打撃と、そのおぞましいまでの『殺気』だけで破壊するとは。……トオルが言っていた通りだ。君は、磨けば磨くほど、この世の誰よりも美しい『闇』を放つ」


 アラタは立ち上がり、ゆっくりと拍手を送った。その背後には、数人の黒服が銃を構えている。


「さて。一週間の猶予だったが、前倒しで終わらせようか。……琴音くんを失い、シキを壊した今の君なら、僕の『真の右腕』に相応しい。……君を、僕の家族として迎えてあげよう」


「……黙れ」


 紫音の口から漏れた言葉は、地を這うような呪詛だった。


「家族? ……よくも、そんな言葉が吐けたな。……琴音を……彼女の心を、身体を、あんな風にしておいて……!!」


 紫音がナイフを握り直す。その瞬間、アラタが合図を送った。


パンッ、パンッ!!

二発の乾いた銃声。


 一発は紫音の右肩を掠め、もう一発は彼の足元の床を砕いた。


「動くな。……君は確かに強いが、銃弾より速くはない。……それに、君がここで僕を殺せば、入り口にいる彼女たちはどうなると思う? ……冷泉家の私設軍隊が、今このビルを包囲している。……僕の心臓が止まった瞬間、彼女たちは一人残らず、跡形もなく『処理』される」


アラタは、勝ち誇ったように笑った。


「君の負けだ、朝霧紫音。……君がどれだけ足掻こうと、この世界の『ルール』は僕たちが作っている。……君にできるのは、僕の足元に跪き、彼女たちの命を乞うことだけだ」


紫音の足が止まった。


 脳裏をよぎるのは、血まみれで倒れた琴音の顔。泣き叫ぶアイリ。折れた足で戦ったレナ。影で支え続けたリュカ。自分がここでアラタを殺せば、彼女たちは死ぬ。


 だが、跪けば、彼女たちは「冷泉の所有物」として生き永らえることになる。


「……ああ、そうだ。それが『合理的』な判断だよ。……さあ、膝を突け。朝霧紫音」


 アラタが、銃口を紫音の額に向けたまま、至近距離まで近づいてきた。


その時だった。


『――いいえ。……それは、計算違いよ』


 支配室のすべてのモニターが、一瞬にしてノイズに包まれた。



◇◆◇


「な……っ!? 何だ、これは!」


 アラタが狼狽え、モニターを振り返る。そこには、赤地に黒い文字で、巨大な『ERROR』の文字が点滅していた。


 スピーカーから流れてきたのは、震えながらも、確固たる殺意を秘めたアイリの声だった。


『冷泉アラタ。……あなたは、私たちを「ただの女」だと思い込みすぎた。……私たちが、紫音くんを失う恐怖のあまり、何もできないとでも思ったの?』


 画面が切り替わる。そこには、リュカが血を吐きながらもキーボードを叩き続け、冷泉家のメインサーバーを内側から食い破っていく映像が映し出されていた。


『……リュカが、あなたのプライベートバンクも、軍事ネットワークも、すべてジャックしたわ。……あなたが紫音くんの心臓を止めた瞬間、冷泉家のすべての資産は闇に消え、隠蔽してきたすべての罪状が、世界中の司法機関に送信される』


「……貴様ら、狂っているのか!? 自分の命が惜しくないのか!」


『惜しいわけないじゃない。……紫音くんがいない世界なんて、私たちにとっては死んでいるのと同じ。……だから、一緒に地獄へ行きましょう? ……アラタさん』


 画面の向こうで、アイリが虚ろな笑みを浮かべる。その背後には、いつの間にか意識を取り戻し、不気味に、本当に不気味に微笑んでいる琴音の姿があった。


「……し、しおん、くん……。だいじょうぶ、だよ……」


琴音の瞳は、霞み、口端からはよだれが垂れている。脳に受けた衝撃が、彼女の理性を完全に破壊していた。だが、その壊れた精神の奥底にある「紫音を守る」という本能だけが、彼女を立ち上がらせていた。


「紫音くんを……いじめる、ゴミは……私が、殺すからね……?」


◇◆◇


一瞬。


 紫音は、アラタの視線が逸れたその隙を見逃さなかった。


ガキィィィィン!!


 紫音のナイフが、アラタの持つ銃を弾き飛ばした。そのまま、折れた左腕をハンマーのように使い、アラタの顔面に叩き込む。


「が、はっ……あぁぁぁッ!!」


 冷泉家の王位継承者が、醜く床を転がる。紫音は、彼の胸ぐらを掴み上げ、血走った瞳で至近距離から宣告した。


「……アラタ。お前の負けだ。……お前が作った『ルール』なんて、彼女たちの『狂気』の前には紙切れ同然だったんだよ」


 紫音は、アラタの喉元にナイフを突き立てた。


「……殺せ。殺せよ……ッ!!」


「……いや。お前は死ぬより辛い目に遭ってもらう。まず死なない程度に刺されて……社会的に抹殺され、一族から追放され、一生、彼女たちの『監視』の下で怯えて暮らすんだ。……それが、僕が選ぶ『ハッピーエンド』だ」


 紫音がナイフを振り下ろそうとした、その時。


バタンッ!!


 支配室の扉が壊れ、そこには、血まみれの琴音を背負ったレナ、端末を抱えたリュカ、そして、返り血を浴びたままのアイリが立っていた。


「……紫音くん」


 アイリが、静かに歩み寄る。彼女は紫音の手からナイフを優しく奪い取ると、代わりに、温かい、けれど異様に力強い手で彼の右手を握った。


「……もう、いいわ。あとの『処理』は、私たちがやる。……あなたは、休んで」


 紫音の視界が、急激に暗くなっていく。アドレナリンが切れ、蓄積されたダメージが一気に彼を襲った。


「……ああ……。シキは……?」


「大丈夫。……彼女は、もう、私たちの仲間よ。……完全に、ね」


アイリの不気味な微笑みを最後に、紫音の意識は深い闇へと沈んでいった。



◇◆◇


数週間後。


 学園の放課後、紫音は一人、誰もいない屋上にいた。腕のギプスは取れたが、心には、決して癒えない傷が刻まれている。


 冷泉家は崩壊した。アラタは精神を病み、現在はアイリが管理する「特殊な療養施設」に監禁されている。トオルは行方不明。ヤマトもまた、あの夜以来姿を消している。


表面上の「平穏」は戻った。


 だが、紫音の背後には、以前よりもさらに強固で、さらに歪な「影」が張り付いていた。


「紫音くん。風が冷たいよ。……ほら、私のコート、一緒に羽織ろう?」


琴音が、背後から抱きついてきた。


 彼女の瞳には、かつての知性は半分も残っていない。言葉も、時折たどたどしくなる。だが、その代わり、彼女の紫音への執着は、もはや「神」に対する信仰に近くなっていた。


「……ああ、ありがとう、琴音」


「ふふ、紫音くん、いい匂い。……ずっと、ずっと、こうしてようね? ……外の世界なんて、もういらないよ。私たちが、紫音くんの『世界』になってあげるから」


琴音が、紫音の耳を甘噛みする。


 その隣では、アイリが完璧なスケジュール表を提示し、レナが「護衛」として周囲に鋭い視線を配り、リュカが「紫音くんの視界に入るすべて」を検閲していた。


そして。


「……朝霧様。……お茶の準備が整いました」


 一歩下がった場所で、九条シキが、メイド服のような制服を纏い、無表情に、けれど深い忠誠を誓った瞳で控えていた。彼女は冷泉の呪縛から解き放たれ、代わりに紫音という「新しい主」を見つけてしまったのだ。


 救い出した少女たちが、一人の少年を「檻」の中に戴冠させた。紫音は、青い空を見上げた。


NTRルートは、確かに回避した。


暴力にも、知略にも、勝った。


 けれど、自分を愛し、守り、そして食らい尽くそうとする五人の「美しき怪物」たちの楽園で、紫音は、もう二度と、一人の「人間」に戻ることはできない。


「……ああ。……これが、僕の望んだ結末なのかな」


紫音は自嘲気味に笑い、自分を縛り付ける少女たちの温もりに、静かに身を委ねた。

救済と破滅の境界線。


そこは、あまりにも心地よい、地獄の最上階だった。


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