閑話④ 冷たい怒りの構え
藤沢道場の奥にある、色褪せた神棚。その横には、一枚の古い写真が飾られている。若かりし頃の藤沢翔吾。その隣で、不遜な笑みを浮かべ、肩を組んでいる一人の男――鬼灯カルマ。
かつて、この界隈で二人の名を知らぬ者はいなかった。藤沢とカルマ。少年期の二人は、学園の秩序など鼻で笑う「狂犬」として暴れまわっていた。だが、喧嘩に明け暮れる日々の中で、二人は共通の夢を抱く。
「翔吾、俺たちの『武』で、この腐った街を塗り替えようぜ。力こそが自由だ」
カルマの言葉に、若き日の藤沢は頷いた。
二人は共に武術を極め、いつか最強の道場を共に運営しようと誓い合ったのだ。藤沢は「護るための剛拳」を、カルマは「蹂躙するための神速」を。武術界の神童と謳われたカルマの才能は、藤沢さえも畏怖させるほどの輝きを放っていた。
――だが、神童の才能は、あまりにも純粋すぎた。
「……カルマ、それはもう武術じゃない。ただの虐殺だ」
道場開設の資金を得るため、カルマは裏社会の「闘技場」に手を染めた。相手を完膚なきまでに叩き潰し、再起不能にする悦楽に、彼は取り憑かれてしまったのだ。
そういえば決裂の日は、雨だった。
藤沢は、道を外した親友を止めるため、拳を交えた。結果は、相打ち。藤沢は左肩に消えぬ傷を負い、カルマは学園と武術界から追放され、闇へと消えた。
「翔吾……お前は甘い。その甘さが、いつかお前の守るものを壊すぜ」
それが、親友から掛けられた最後の言葉だった。
◇◆◇
降り頻る雨の中、稽古後の静まり返った道場に、一人の男が足音も立てずに現れた。
「……相変わらず、古臭い匂いのする場所だな。藤沢のオジさんよ」
鬼灯ヤマト。
かつての親友、カルマの息子が、道場の敷居を無作法に跨いでいた。その面影には、あの頃のカルマが持っていた、剥き出しの「野生」が色濃く残っている。
「……ヤマトか。親父さんはどうした」
「死んだよ。……酒と喧嘩に溺れて、最後に俺を殴り殺そうとして返り討ちにあってな。……あいつは死ぬ間際まで、あんたの名前を呪ってたぜ」
ヤマトが、吐き捨てるように笑う。
藤沢の胸に、重く、鋭い痛みが走った。カルマを救えなかった自分の過ちが、今、その息子という形をとって目の前に現れている。
「……ヤマト。お前の拳には、カルマと同じ『業』が宿っている。……だが、お前はまだ引き返せる」
「説教はやめろ。……俺は親父を超え、あんたが育てた『朝霧紫音』を蹂躙して、この街の王になる。……それが、鬼灯の血の導きだ」
ヤマトの瞳に、暗い炎が宿る。
かつての親友と、今の弟子。
藤沢は、自分の過去が再び繰り返されようとしているのを悟った。
「……いいだろう。なら、俺は俺のやり方で、紫音を鍛え上げる。……カルマに届かなかった俺の拳を、あいつに託すために」
藤沢は、震える己の拳を握りしめ、月明かりの下で静かに誓った。
――かつての過ちは、二度と繰り返さない。紫音、お前だけは、地獄に落とさせはしない。
◇◆◇
叩きつけるような雨が、道場のトタン屋根を激しく打つ。道場裏の空き地。街灯の鈍い光の下で、二人の男が対峙していた。
「……本気で来るか、藤沢のオジさん。その年で、親父の幻影を追いかけるのは酷じゃねえか?」
ヤマトが、雨に濡れた髪を無造作にかき上げる。その足元には、既に数人の門下生が転がっていた。
「ヤマト……。お前の親父、カルマを止められなかったのは俺の生涯の悔いだ。……だからこそ、その息子であるお前を、ここで叩き直すのが俺の責任だ」
藤沢翔吾が、静かに構えを取る。
次の瞬間、空気が爆ぜた。
「おおおおおッ!!」
藤沢の踏み込み。老いを感じさせない、岩石のような突進。ヤマトの回避を読み、重い正拳突きがその脇腹を捉える。
「――っ!?」
ヤマトの体が宙に浮く。藤沢は追撃の手を緩めない。数年積み上げた「護るための剛拳」。それは、若き日のカルマさえも凌駕するほどの、圧倒的な完成度を誇っていた。
「どうした、ヤマト! 力こそが自由と言ったのは、お前の親父だ! その程度かッ!」
藤沢の連撃がヤマトを壁際まで追い詰める。勝利は確信に近いものだった。……はずだった。
「……ハ、ハハハ……。最高だ。最高じゃねえか、オジさん……」
壁に背をつけたまま、ヤマトが低く笑い出した。
その瞳。
雨に濡れた顔の奥で、獣のそれとも違う、どす黒い執念の炎が燃え盛っている。
「――っ!?」
藤沢の背筋に、氷を流し込まれたような悪寒が走った。ヤマトから発せられる「気迫」。それは単なる殺意ではない。自らの命さえもチップにして、相手を地獄へ道連れにするという、完成された「狂気」だった。
(…




