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影の歩き方

 どこかに行こう。そう思った。


 それは、光の角度がほんの少し変わった瞬間だった。


 ぼくは、影だった。


 壁に貼りつき、床に伸び、物のかたちに従って生まれる、黒い輪郭。名前を持たず、重さも持たず、ただそこにあるだけの存在。


 ぼくは、机の脚から生まれた影だった。


 四本の細い線が、床に落ちる。その一本が、ぼくだった。朝は短く、昼は細く、夕方には長く伸びる。


 けれど、どれだけ伸びても、ぼくは机から離れることはできない。


 光がある限り、ぼくはそこに縛られている。


 それが、当たり前だった。


 疑うこともなく、ただ受け入れていた。


 けれど、その日、光が揺れた。


 窓の外で何かが動いたのか、差し込む光がわずかに歪む。すると、ぼくの輪郭も、ほんの少しだけ歪んだ。


 そのときだった。


 自分が、動いたように感じた。


 ほんのわずかに。


 ほんの一瞬。


 けれど、それは確かに、「動きたい」という感覚だった。


 どこかに行きたい。


 机から離れて、壁でも床でもない場所へ。


 そんなことが、できるはずがないと、すぐに分かった。


 影は、光と物に縛られている。


 それがすべてだ。


 それでも、その思いは消えなかった。


 むしろ、ゆっくりと、濃くなっていく。


 夕方が近づき、光が低くなる。


 ぼくは長く伸びていく。


 床の上を滑るように、遠くまで。


 その先に、別の影があった。


 それは、椅子の影だった。


「やあ」


 ぼくは、声のようなものを投げた。


 影に声はない。けれど、重なり合うことで、何かが伝わることがある。


「……めずらしいね」


 椅子の影は、少しだけ揺れた。


「話しかけてくるなんて」


「きみは、動きたいと思ったことはない?」


 ぼくは、ためらいながら聞いた。


 椅子の影は、しばらく何も返さなかった。


 光がさらに傾く。


 ぼくたちは、ゆっくりと形を変えていく。


「ないよ」


 やがて、椅子の影は言った。


「ぼくたちは、そういうものじゃない」


「でも」


「でもも何もない」


 きっぱりとした声だった。


「影は、光に従うだけだ」


 その言葉は、正しかった。


 だからこそ、重かった。


「じゃあ、もし光がなかったら?」


 ぼくは、思わず言っていた。


 椅子の影は、わずかに揺れた。


「そのときは、消えるだけだ」


 それ以上の会話は続かなかった。


 やがて、日が沈む。


 光が消える。


 ぼくも、消えた。


 存在がほどけて、何もなくなる。


 それはいつものことだった。


 怖いと思ったことはなかった。


 けれど、その日は違った。


 消えながら、ぼくは思った。


 このまま、何もできないままなのか。


 生まれて、伸びて、消える。


 それだけを繰り返すのか。


 どこかに行くこともなく。


 その思いは、暗闇の中でも消えなかった。


 やがて、朝が来る。


 光が差し込む。


 机の脚が、再び影を生む。


 ぼくは、戻ってきた。


 同じ場所に。


 同じ形で。


 けれど、昨日とは違っていた。


 ぼくの中に、あの思いが残っている。


 どこかに行きたい。


 そのために、何ができるのか。


 ぼくは考えた。


 影は、自分では動けない。


 けれど、光と物が動けば、影も動く。


 ならば。


 ぼくは、机を見た。


 机は動かない。


 重く、静かに、そこにある。


 けれど、その上には、さまざまなものが置かれている。


 本。


 ペン。


 紙。


 それらは、ときどき動く。


 誰かの手によって。


 ぼくは、その中の一枚の紙に目を向けた。


 白い紙。


 軽くて、動きやすい。


 もし、あれが動けば。


 その影も、動く。


 ぼくは、待った。


 時間が過ぎる。


 やがて、部屋の主がやってきた。


 机に向かい、紙を手に取る。


 光が揺れる。


 影が動く。


 ぼくは、その瞬間を逃さなかった。


 紙の影に、重なる。


 ぴたりと、寄り添う。


 すると、ぼくの輪郭が、わずかに変わる。


 机から切り離されるような感覚。


 それは、不安定で、頼りない。


 けれど。


 ぼくは、机の影ではなくなった。


 紙の影として、持ち上げられる。


 床から離れる。


 空中に浮く。


 ぼくは、はじめて「移動」した。


 心が震える。


 形が揺れる。


 それでも、離れないように、必死でしがみつく。


 紙は、別の場所へ運ばれる。


 机から、窓辺へ。


 光が変わる。


 ぼくの形も変わる。


 けれど、確かに、ここはさっきまでとは違う場所だった。


 ぼくは、少しだけ笑った気がした。


 影に顔はない。


 けれど、そのとき、確かに笑っていた。


 紙が置かれる。


 ぼくも、そこに落ちる。


 新しい床。


 新しい光。


 知らない角度。


 すべてが新しかった。


 ぼくは、そこで気づいた。


 自分で歩くことはできなくても、方法はある。


 重なることで、運ばれる。


 寄り添うことで、離れられる。


 それは、ほんの小さな自由だった。


 けれど、確かな自由だった。


 その日から、ぼくは試し続けた。


 さまざまな影に重なり、少しずつ場所を変える。


 椅子の影。


 本の影。


 ときには、人の影に触れることもあった。


 そのたびに、世界は広がっていく。


 部屋の隅。


 廊下。


 扉の向こう。


 ぼくは、少しずつ、遠くへ行けるようになった。


 ある日、ぼくは外へ出た。


 太陽の下。


 強い光。


 くっきりとした影。


 そこには、無数の影があった。


 木の影。


 建物の影。


 歩くものたちの影。


 それらは、絶えず形を変え、動いている。


 ぼくは、その中に混ざった。


 もう、机の脚の影ではなかった。


 ただの影のひとつとして。


 風が吹く。


 光が揺れる。


 影が踊る。


 ぼくは、その中で、静かに思った。


 どこかに行こう。そう思った。


 その思いは、もう、ただの願いではなかった。


 ぼくは、すでに動いている。


 どこへでも行けるわけではない。


 それでも、少しずつ、確かに進んでいる。


 影は、光に縛られている。


 けれど、その中で、選べる道もある。


 ぼくは、それを知った。


 そして、これからも、重なりながら進んでいく。


 光のある限り、どこへでも。

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