風の行き先
どこかに行こう。そう思った。
けれど、ぼくには行き先がなかった。
ここは、海のない町だった。山に囲まれ、風はいつも同じ道を通って吹いてくる。朝も昼も夜も、風は変わらず、同じ匂いを運んでくる。
ぼくはその風が、少しだけ苦手だった。
変わらないものは、やさしいけれど、ときどき息苦しい。
「また同じ風だね」
そうつぶやくと、どこからか小さな声が返ってきた。
「それは、きみが動かないからだよ」
振り向くと、電線の上に一羽の鳥がとまっていた。灰色の羽に、すこしだけ青が混じっている。見たことのない鳥だった。
「ぼく、動いてるよ」
「足はね。でも、心は?」
鳥は首をかしげる。
ぼくは、なにも言えなかった。
心が動くって、どういうことだろう。
「どこかに行きたいんだろう?」
鳥は言った。
「うん。でも、どこに行けばいいのかわからない」
「じゃあ、風に聞けばいい」
「風に?」
ぼくは空を見上げた。
風は見えない。ただ、葉っぱを揺らし、ぼくの髪をなでるだけだ。
「風はね、行き先を知ってるんだよ」
鳥は翼を少し広げた。
「だって、ずっと旅をしてるから」
「でも、どうやって聞くの?」
鳥は、くすっと笑った。
「ついてくればいい」
そう言うと、ふわりと飛び立った。
ぼくは少し迷ったけれど、走り出した。
鳥は低く飛びながら、ぼくを待ってくれる。町のはずれを越え、見たことのない道へ入っていく。
やがて、道は細くなり、森の中へと続いていった。
風の音が変わる。
町で聞いていた風とは違う、やわらかくて、深い音。
「ここで、少し立ち止まって」
鳥が言った。
ぼくは息を整えながら、その場に立った。
「目を閉じて」
言われたとおりにする。
すると、風の音がはっきりと聞こえてきた。
葉っぱが揺れる音。
遠くで木がきしむ音。
どこかで、小さな水が流れる音。
「どう?」
鳥の声。
「……いろんな音がする」
「それが風の声だよ」
ぼくは、耳をすませた。
すると、その中に、かすかな違いがあることに気づいた。
同じように聞こえていた音が、少しずつ違っている。
やさしい風。
急ぐ風。
迷っている風。
「風って、こんなに違うんだ」
「そう」
鳥はうなずいた。
「きみが知らなかっただけ」
ぼくは目を開けた。
世界が、少しだけ違って見えた。
「ねえ」
ぼくは鳥に聞いた。
「風の行き先って、どうやって決まるの?」
鳥は空を見上げた。
「決まってないよ」
「え?」
「風はね、行きたいところに行くんだ」
ぼくは驚いた。
「でも、同じ方向から吹いてきてるよ」
「それは、きみが同じ場所にいるから」
鳥はやさしく言った。
「場所が変われば、風も変わる」
ぼくはしばらく考えた。
そして、少しだけわかった気がした。
「じゃあ、ぼくが動けば、風も変わる?」
「そういうこと」
鳥は笑った。
「だから、どこかに行こうと思ったんだろう?」
ぼくはうなずいた。
胸の中の、あのもやもやが、少しだけ軽くなっていた。
「ねえ、きみはどこへ行くの?」
ぼくが聞くと、鳥は少しだけ考えた。
「ぼくはね、風の行くところ」
「それって、どこ?」
「さあ」
鳥は楽しそうに笑う。
「だから、おもしろいんだよ」
その言葉を聞いて、ぼくも少し笑った。
行き先がわからないのは、こわいことだと思っていた。
でも、もしかしたら、それは悪いことじゃないのかもしれない。
「ぼくも、行ってみる」
ぼくは言った。
「どこへ?」
「まだわからないけど」
鳥は大きく翼を広げた。
「いいね」
風が吹く。
さっきよりも、少しだけ違う風。
「じゃあ、一緒に行こうか」
鳥は空へ飛び上がった。
ぼくはそのあとを追いかける。
森を抜けて、見たことのない道へ。
風は、もう同じ匂いじゃなかった。
やさしいだけでも、苦しいだけでもない。
知らない匂い。
知らない音。
知らない世界。
でも、それが少しだけ、うれしかった。
どこかに行こう。そう思った。
今度は、その先が楽しみだった。




