街路樹の苦悩
どこかに行こう。そう思った。
もっとも、ぼくは動けない。
根を張っているからだ。
舗装された歩道の端、灰色の街の中で、ぼくは一本の街路樹として生きている。種類の名は知らない。誰かが植え、誰かが水をやり、誰かが見上げ、そして誰にも気づかれないまま、ぼくはここにいる。
動けないということは、変われないということだと思っていた。
けれど、それは少し違う。
ぼくは、毎日、少しずつ変わっている。
葉は生まれ、色づき、落ちる。幹は太くなり、根は見えないところで広がっていく。けれど、それは「ここ」に留まったままの変化だ。
ぼくが思ったのは、そういう変化ではなかった。
どこかへ、行きたい。
その「どこか」は、ぼくの中にしか存在しない場所だった。
ある日、ひとりの少女が、ぼくの根元にしゃがみこんだ。
まだ小さく、ランドセルが背中に大きすぎる。
少女は、何も言わずに地面を見つめていた。
やがて、小さな声でつぶやく。
「忘れたくないな」
ぼくは、その言葉を受け取った。
音としてではなく、震えとして。
少女の中にある何かが、ぼくの根へと触れた。
そのとき、不思議なことが起きた。
ぼくの中に、知らない景色が流れ込んできた。
夕暮れの教室。
窓から差し込むオレンジ色の光。
隣の席の誰かが笑っている。
それが、少女の記憶だと分かるまで、少し時間がかかった。
ぼくは、記憶を見ていた。
少女は立ち上がり、去っていく。
その背中は軽かった。
けれど、ぼくの中には、さっきの景色が残っている。
それは、ぼくのものではない。
けれど、確かに、ぼくの中にある。
その日から、ぼくは気づいた。
人は、ときどき、何かを置いていく。
言葉にならない思い。
忘れたくない記憶。
あるいは、忘れてしまいたい何か。
それらは、ぼくの根に触れ、幹を伝い、葉の奥へと沈んでいく。
ぼくは、それを食べていた。
正確には、吸い上げていた。
水や栄養と同じように、記憶を。
最初は戸惑った。
他人の記憶が、自分の中にあることが、怖かった。
けれど、やがて慣れていった。
むしろ、それがぼくにとっての「動く」ことなのだと、気づき始めた。
ぼくは、ここにいながら、どこへでも行ける。
少女の教室へ。
誰かの夏の日へ。
別れの駅へ。
知らない街へ。
ぼくは、動けない代わりに、記憶の中を旅することができた。
それでも、足りなかった。
それは借りものだ。
ぼく自身の行き先ではない。
ある夜、風が強く吹いた。
街灯が揺れ、葉がざわめく。
その風の中に、かすかな声があった。
「行きたいのか」
ぼくは驚いた。
風が、語りかけてくる。
「どこかへ」
ぼくは、応えた。
「でも、動けない」
風は笑った。
「おまえは、もう動いている」
「記憶の中で、だけだ」
「それで十分か?」
ぼくは、答えられなかった。
十分ではない。
だからこそ、最初に思ったのだ。
どこかに行こう、と。
「方法がある」
風は言った。
「ただし、戻れないかもしれない」
ぼくは、しばらく考えた。
戻れない。
それは、ここを失うということだ。
この場所。
毎日見ている空。
ぼくに触れていく人々。
それらすべてを。
それでも。
「それでもいい」
ぼくは言った。
風が、強くなる。
「ならば、手放せ」
「なにを?」
「溜め込んだものすべてを」
ぼくは、自分の中を見た。
無数の記憶が、そこにある。
笑い声。
涙。
言葉。
沈黙。
それらが、ぼくを形づくっている。
「それを、すべて返せ」
風は言う。
「そうすれば、おまえは空になる」
「空に?」
「そうだ。軽くなれば、運ばれる」
ぼくは、迷った。
これらを手放せば、ぼくは何になるのか。
何も残らないのではないか。
けれど、気づいた。
いまのぼくは、ほとんどが「誰か」だ。
ぼく自身は、どこにあるのだろう。
それなら。
一度、すべてを手放してみてもいい。
ぼくは、静かに、解き放った。
記憶が、風に乗る。
少女の教室が、夕焼けが、笑い声が、空へと舞い上がる。
ぼくの中が、空っぽになっていく。
軽くなる。
とても、軽く。
根が、緩む。
土とのつながりが、ほどける。
信じられないことに、ぼくは、地面から離れた。
風が、ぼくを持ち上げる。
ぼくは、もはや木ではなかった。
形のない、なにか。
空気の中を漂う存在。
街が下に見える。
いつも見上げていた景色を、見下ろしている。
それは、奇妙で、そして美しかった。
ぼくは、進む。
風のままに。
けれど、今度は違う。
ぼくは、自分で選んでいる。
どこへ行くのかを。
遠くへ。
もっと遠くへ。
知らない場所へ。
かつて、記憶の中でしか行けなかった場所へ。
ぼくは、ようやく辿り着いた。
自分の「どこか」に。
ふと、思う。
あの場所に、また誰かが立つだろう。
新しい街路樹の下で。
そして、なにかを置いていく。
記憶を。
思いを。
それを受け取る存在が、また生まれる。
ぼくはもう、そこにはいない。
けれど、それでいい。
ぼくは、行きたかった場所へ、来たのだから。
どこかに行こう。そう思った。
その答えを、いま、風の中で見つけている。




