終点の向こう側 ※ホラー
どこかに行こう。そう思った。
その考えは、自分のものではないような気がしていた。
机に向かっていたはずなのに、気がつけば立ち上がっていた。窓の外は暗く、時計は午後九時を少し回っている。やるべきことはあったはずだ。けれど、それが何だったのか、思い出そうとすると頭の奥がじんと痛んだ。
どこかに行こう。
もう一度、同じ言葉が浮かぶ。
理由はない。ただ、行かなければならない気がした。行かなければ、取り返しのつかないことになるような、そんな焦燥が胸の奥に広がっていく。
僕は上着を羽織り、財布だけを持って部屋を出た。
スマートフォンは机の上に置きっぱなしだったが、取りに戻る気にはならなかった。むしろ、持っていかない方がいいような気がした。
玄関のドアを閉める音が、やけに大きく響いた。
廊下は静まり返っている。隣の部屋の気配もない。階段を下りるたびに、足音が空洞のように反響した。
外に出ると、風がなかった。
不自然なほどに、空気が動いていない。夜なのに、虫の声も聞こえない。
僕はそのまま歩き出した。
行き先はわからない。けれど、足は迷わなかった。まるで道を知っているかのように、曲がるべき角を曲がり、信号を渡る。
やがて駅に着いた。
見慣れたはずの駅なのに、どこか違って見えた。照明が少し暗い。人の気配もほとんどない。
改札は開いていた。
駅員の姿はない。
僕はためらわずに中に入った。
ホームには、電車が停まっていた。
見たことのない車両だった。古びているのに、どこも壊れていない。塗装は剥げているのに、汚れはない。
行き先表示は、黒く塗りつぶされていた。
それでも僕は、それに乗るべきだと知っていた。
ドアが開く。
音もなく。
僕は車内に入った。
中には誰もいなかった。
座席に腰を下ろすと、すぐにドアが閉まった。
発車のベルは鳴らない。
電車は、静かに動き出した。
窓の外は暗闇だった。
街の灯りが見えない。トンネルの中のようでもあるが、いつまで経っても抜けない。
ふと、向かいの席に誰かが座っていることに気づいた。
いつからいたのか、わからない。
女だった。
長い髪が顔を隠している。俯いたまま、動かない。
「……いつから」
声をかけようとして、喉がひりついた。
女はゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
その瞬間、強烈な既視感が胸を貫いた。
知っている。
この顔を、僕は知っている。
「やっと来たね」
女はそう言った。
声は、懐かしいようでいて、どこか歪んでいた。
「ずっと待ってたのに」
「……誰だ」
問いかける声が震える。
女は笑った。
「忘れたの?」
その笑みは、ひどく不自然だった。口だけが動き、目は笑っていない。
「ひどいなあ」
電車が揺れる。
ガタン、と大きな音がした。
その瞬間、車内の照明が一瞬だけ消えた。
次に灯ったとき、女の顔がすぐ目の前にあった。
「ねえ」
息がかかるほど近い距離。
「なんで、あのとき来てくれなかったの?」
心臓が強く打つ。
記憶の底に、なにかが沈んでいる。
思い出してはいけないものが、浮かび上がろうとしている。
「約束したよね」
女の手が、僕の腕を掴んだ。
冷たい。
氷のように。
「終点で待ってるって」
終点。
その言葉が、頭の中で反響する。
電車は、さらに速度を上げていた。
窓の外に、かすかな光が見え始める。
闇の向こうに、なにかがある。
「思い出して」
女の顔が歪む。
その輪郭が、少しずつ崩れていく。
「ねえ、思い出してよ」
声が重なる。
一人の声ではない。
複数の声が、同時に響いている。
僕は頭を抱えた。
痛い。
思い出したくない。
けれど、止められない。
――あの日。
駅のホーム。
雨。
傘を持っていなかった。
誰かが笑っていた。
「先に行ってるね」
振り返った顔。
それが、いま目の前にいる女と重なる。
違う。
同じだ。
電車が来る。
警告音。
足を踏み出す影。
僕は――
「止めなかった」
言葉が、勝手に口からこぼれた。
女の動きが止まる。
次の瞬間、顔が大きく歪んだ。
「そうだよ」
低い声。
「見てただけ」
腕を掴む力が強くなる。
骨が軋む。
「だから、連れてきたの」
電車が減速する。
終点に近づいている。
窓の外に、ホームが見えた。
人影が並んでいる。
すべて、こちらを見ている。
「ここが終点」
女が囁く。
「約束した場所」
ドアが開く。
冷たい空気が流れ込む。
外にいる人影たちが、一斉に一歩前に出る。
顔が見えた。
どれも、同じ顔だった。
あの女の顔。
歪んだ笑みを浮かべている。
「さあ」
腕を引かれる。
「今度は、逃げないでね」
僕は立ち上がる。
足が勝手に動く。
止められない。
ホームに降りる。
その瞬間、背後でドアが閉まった。
振り返る。
電車はもういない。
線路も、なかった。
ただ、暗闇が広がっている。
「ねえ」
無数の声が重なる。
「今度は、ちゃんと来てくれたね」
僕は、ようやく気づいた。
あのとき。
僕は、彼女を見捨てたのではない。
見送ったのだ。
この場所へ。
そして今、同じ場所に立っている。
逃げ場はない。
どこにも行けない。
だって――
ここが、終点だからだ。




