海のない町の遠雷
どこかに行こう。そう思った。
理由は、はっきりしない。ただ胸の奥で、なにかがじわりと腐っていくような、そんな気配があった。
部屋の窓を開けても、空気は入れ替わらない。目に見えない澱のようなものが、壁にも、机にも、そして自分の内側にも張りついている。
この町には海がない。
子どもの頃から、ずっとそれが当たり前だった。電車に乗って二時間もすれば海はあると知っているし、修学旅行で一度だけ見たこともある。
それでも、日常の中に海が存在しないという事実は、なぜか妙に現実味を帯びていた。
海がないから、逃げ場もないのだと、最近は思うようになっていた。
僕は机の上に置きっぱなしの財布を手に取った。中身はあまり入っていない。数枚の紙幣と、小銭がいくらか。それでも、どこかへ行くには十分だろう。目的地がないのだから。
スマートフォンの電源を切る。誰かから連絡が来るとは思えないが、来ないことを確認する作業すら、いまは煩わしかった。
玄関のドアを開けると、冷たい風が頬に触れた。冬の終わりが近いはずなのに、まだ空気は硬い。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと戻ってしまう気がしたからだ。
駅までは徒歩十分。見慣れた道を歩きながら、ここを離れるという実感はなかった。
コンビニの看板、角の古い電柱、潰れた喫茶店の跡地。どれもが、まるで舞台装置のように並んでいるだけで、現実味が希薄だった。
駅に着くと、改札の前で少しだけ立ち止まった。
行き先を決めていない。
券売機の前に立ち、路線図を見上げる。無数の駅名が並んでいる。知らない名前ばかりだ。
どこでもいい。
そう思って、適当に指を伸ばした先の駅までの切符を買った。
改札を抜けると、ホームには人がまばらにいた。平日の昼間だからだろうか。
ベンチに座る老人と、イヤホンをした学生。それぞれが別の時間の中にいるように見えた。
電車が来る。
僕はそれに乗り込んだ。
座席に腰を下ろすと、ようやく少しだけ現実が戻ってきた。車内の揺れ、レールの音、窓の外を流れる景色。それらが、ここが現実であると教えてくる。
どこへ向かっているのかも知らずに、僕は電車に揺られていた。
隣の席に、いつの間にか女の人が座っていた。
年齢は僕より少し上くらいだろうか。黒いコートに身を包み、手袋をしたまま本を読んでいる。その横顔は、どこか遠くを見ているようにも、なにも見ていないようにも思えた。
しばらくして、彼女がページをめくる手を止めた。
「どこまで行くんですか」
突然、そう聞かれて、僕は一瞬言葉を失った。
「え……」
「その切符」
彼女は僕の手元をちらりと見た。
僕は慌てて切符を見た。そこには、さっき適当に選んだ駅名が印字されている。
「……たぶん、ここです」
「たぶん、なんですね」
彼女は少しだけ笑った。
その笑い方は、からかっているようでも、優しいようでもあった。
「どこでもいいと思って」
僕がそう言うと、彼女は頷いた。
「いいですね、それ」
「いいんですかね」
「いいと思いますよ。行き先を決めないで出かけるのって、意外と勇気がいりますから」
彼女は再び本を開いた。
会話はそれで終わるかと思ったが、なぜか僕はもう少し話したくなった。
「あなたは、どこまで?」
「終点まで」
即答だった。
「理由、聞いてもいいですか」
少し間があった。
彼女は本を閉じ、窓の外を見た。
「帰る場所がないから」
その言葉は、驚くほど平坦だった。
悲しみも、怒りも、諦めも感じられない。ただ事実を述べただけのような声音だった。
僕はなにも言えなかった。
彼女は続ける。
「だから、終点まで行って、また戻るんです。そうやって時間を潰してる」
「……それ、楽しいですか」
「どうでしょうね」
彼女は少し考えるように目を細めた。
「少なくとも、止まっているよりはマシです」
その言葉は、僕の胸の奥にすとんと落ちた。
止まっているよりはマシ。
それは、僕がいまここにいる理由そのものだった。
電車は次の駅に停まった。
数人が乗り降りする。日常の断片が、ドアの開閉とともに入れ替わる。
僕はふと、思った。
このまま終点まで行ってみてもいいのではないかと。
「僕も、終点まで行ってみようかな」
そう言うと、彼女は少しだけ驚いた顔をした。
「いいんじゃないですか」
「切符、足りないですけど」
「車内で精算できますよ」
彼女は当たり前のことのように言った。
僕は頷いた。
その瞬間、なにかが少しだけ軽くなった気がした。
理由はわからない。ただ、決めていなかった行き先が、ほんの少しだけ形を持ったからかもしれない。
電車は走り続ける。
景色が少しずつ変わっていく。見慣れた建物が減り、畑が増え、やがて山が近づいてくる。
「海、見たことありますか」
彼女がふと、そんなことを聞いた。
「一度だけ」
「どうでした?」
「広かったです」
当たり前の答えしか出てこなかった。
彼女は笑った。
「そうですよね。広いですよね」
少しの沈黙。
「わたし、海が好きなんです」
「終点の先に、海があるんですか」
「ありますよ。電車を降りて、少し歩くと」
僕は窓の外を見た。
この線路の先に、海がある。
その事実が、妙に現実味を帯びて胸に迫ってきた。
海のない町で生きてきた僕が、いま海へ向かっている。
それは、些細なことのはずなのに、どこか決定的な意味を持っているように感じられた。
やがて、電車は終点に着いた。
小さな駅だった。
降りた人は少ない。彼女と僕も、その中の一人だった。
改札を出ると、潮の匂いがした。
初めてではないはずなのに、胸がざわつく。
「行きましょう」
彼女が歩き出す。
僕はその後を追った。
駅からの道は、緩やかに下っている。遠くに、青い線が見えた。
海だ。
歩くたびに、その青は広がっていく。
やがて、視界が開けた。
海があった。
言葉にならなかった。
ただ、広がっている。
どこまでも。
僕は立ち尽くした。
彼女は少し先まで歩き、振り返った。
「どうですか」
僕は答えられなかった。
ただ、胸の奥に溜まっていたなにかが、少しずつほどけていくのを感じていた。
風が吹く。
波の音が響く。
そのすべてが、僕の中の澱を洗い流していくようだった。
「また、来ればいいんですよ」
彼女が言った。
「帰る場所があっても、なくても」
僕は頷いた。
どこかに行こうと思った理由は、まだはっきりしない。
けれど、来てよかったと思った。
海のない町に戻っても、きっともう同じではない。
遠くで、雷の音がした。
晴れているのに、どこかで鳴っている。
それは、ここではないどこかの気配だった。
僕はその音を聞きながら、もう一度、海を見た。
そして、少しだけ笑った。




