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記録

 どこかに行こう。そう思った。

 これは、被記録者本人の供述によるものである。


 記録番号K―9441。

 性別、年齢、職業はいずれも統計的平均値に近く、社会的危険度は低と判定されていた。

 観測開始時点では、特別な監視対象ではなかった。


 本人の生活は、極めて安定していた。

 定時に起床し、決められた経路で通勤し、決められた業務をこなし、決められた時間に帰宅する。突発的行動は少なく、感情の振れ幅も小さい。


 だからこそ、最初の報告は軽視された。


 どこかに行こう。

 そう思った、という内部申告は、誰にでも起こりうる。


 第一回思考発生は、午前七時四十二分。

 持続時間〇・三秒。

 内容は曖昧で、具体的な移動先の想定はなし。


 記録担当者は、チェックを一つ入れただけだった。

 黄色にも満たない、ほぼ無色の印。


 本人は、その日も通常通りに出勤した。

 電車に揺られ、広告を眺め、スマートフォンを操作する。周囲との相互作用に異常はない。


 昼休み、同僚との会話も問題なかった。


「最近どう?」


「普通だよ」


 この「普通」は、重要な指標だ。

 本人が「普通」と答えられるうちは、制度は介入しない。


 第二回思考発生は、その日の夕方だった。


 どこかに行こうかな。


 今度は疑問形だった。

 持続時間は〇・六秒。


 記録上、警戒度が一段階上がる。

 だが、本人への通知は行われない。自覚は、余計な思考を誘発する。


 帰宅後、被記録者はテレビを見ていた。

 ニュースは平穏を伝え、社会は順調であると繰り返す。


「この社会は、あなたを大切にしています」


 そういう言葉に、彼は軽く頷いた。

 違和感はなかった。


 第三回思考発生は、就寝前。


 どこかに行こう。


 断定形だった。

 これで、正式な分類対象となる。


《移動指向傾向:有

 修正可能性:中

 社会影響度:低》


 翌日、本人の端末に通知が届いた。


《生活サポートのご案内》


 文面は丁寧で、柔らかい。

 選択肢があるように見える構成。


 あなたなら、こう設計するだろう。

 不安を与えず、責任を感じさせず、自然に「同意」を選ばせる。


 被記録者は、説明を読み、同意した。


 なぜなら、自分が何か悪いことをしたという意識がなかったからだ。

 ただ、どこかに行こうと思っただけなのだから。


 施設は白く、静かだった。

 職員は親切で、質問にも誠実に答えた。


「あなたの負担を軽くします」


「どこへ行くんですか」


「行き先を考える必要はありません」


「戻れますか」


「必要になれば」


 被記録者は、少し安心した。

 制度は、彼の敵ではない。


 処理は短時間で終わった。

 苦痛はなく、記憶も曖昧になる。


 記録上は、《移動完了》。


 その後、彼の席は空いたが、社会は問題なく回った。

 職場は補充され、住居は再割り当てされ、彼の名前は名簿から静かに消えた。


 ここまでが、公式記録である。


 だが、補足事項がある。


 被記録者は、実際には一度も「どこかに行こう」とは思っていなかった。


 第一回思考発生とされる七時四十二分。

 彼が考えていたのは、次のような内容だった。


「今日は、いつもと同じだな」


 第二回は、


「このままでいいんだろうな」


 第三回も、


「特に変えたいことはない」


 いずれも、移動願望ではない。

 逃避でも、逸脱でもない。


 ただ、確認だった。

 現状が現状であることの確認。


 だが、制度においては、「ここにいる理由を確認する思考」は、「ここ以外を想定する思考」と同一に扱われる。


 その変換は、自動で行われる。

 人の意図は、処理に必要ない。


 記録には、こう書き換えられる。


 どこかに行こう。

 そう思った。


 この文章を、あなたは今、読んでいる。


 最初の一文を、疑わずに。

 彼が「行こう」と思ったのだと、当然のように受け入れて。


 だが実際には、その一文は、最初から存在しなかった思考を、制度が必要とした形に要約しただけのものだ。


 それでも、処理は正当だ。

 なぜなら、記録は整合している。


 あなたが今、ここまで読み進めたことで、この記録は完全なものになる。


 「どこかに行こうと思った者が処理された」という物語が、誰にも疑われない形で完成する。


 だから最後に、訂正は行われない。


 最初の一文は、消されない。


 どこかに行こう。そう思った。

 ――そう書かれている限り、それは真実になる。

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