靴のはなし
どこかに行こう。そう思った。
それは、まだ朝露が草に残っている時間だった。
森のはずれの小さな家で、少年はベッドから起き上がり、窓を開けた。空は高く、雲はゆっくり流れている。今日が特別な日だと告げるものは、何もなかった。ただ、胸の奥が少しだけ、あたたかかった。
少年は、自分でも理由が分からないまま、そう思ったのだ。
どこかに行こう。
母は台所でパンを焼いていた。
父は庭で木を削っている。
「どこへ行くの?」
母は、特に驚きもせずに聞いた。
「分からない」
少年は正直に答えた。
「じゃあ、お昼までには戻っておいで」
「うん」
それだけだった。
この家では、「分からない」が理由になることを、誰も不思議に思わない。
少年は靴を履こうとして、立ち止まった。
靴が一足、増えている。
見たことのない靴だった。
茶色で、少し大きくて、でも不思議と足に合いそうな形をしている。新品でも古靴でもない。最初から、ここにあったような顔をしている。
少年は迷った末、その靴を履いた。
すると、床が小さく鳴った。
「いってらっしゃい」と言われた気がしたが、たぶん気のせいだ。
外に出ると、道はいつもより長く見えた。
森へ続く小道が、くるりと曲がって、普段より先まで伸びている。
少年は歩き出した。
靴は、何も言わない。
ただ、歩きやすかった。
森に入ると、木々が少しだけざわめいた。
鳥たちは、少年を見てから鳴き始める。まるで、合図を待っていたみたいに。
最初に会ったのは、カメだった。
「おはよう」
カメは言った。
「おはよう」
少年も返した。
「どこへ行くんだい」
「どこか」
「いいね」
カメはそれ以上聞かなかった。
代わりに、こう言った。
「急がないなら、右の道がいい」
「どうして?」
「景色がきれいだから」
少年は右へ進んだ。
道の途中で、小さな川に出た。水は澄んでいて、魚がゆっくり泳いでいる。橋はなかったが、石が並んでいた。
少年が一歩目を踏み出すと、靴が少しだけ、重くなった。
慎重に、という合図だと分かった。
渡り終えると、靴は元に戻った。
森を抜けると、丘があった。
丘の上には、風車が一つ立っている。
風車のそばには、女の人がいた。
年齢は分からない。若くも見えるし、とても年を重ねているようにも見える。
「どこから来たの?」
「家から」
「どこへ行くの?」
「どこかへ」
「それなら、少し休んでいくといいよ」
少年は丘に座った。
風が吹くと、風車がゆっくり回る。回るたびに、影が地面に円を描く。
「この風車はね」
女の人は言った。
「行き先が決まっていない人のために回るの」
「どうして?」
「決まっていると、風は止まっちゃうから」
少年はよく分からなかったが、きれいだと思った。
丘を下りると、道は三つに分かれていた。
標識はない。
少年は、立ち止まって考えた。
すると、靴が少しだけ、左に向いた。
「こっち?」
靴は答えない。
でも、嫌がっていない。
左の道は、花畑につながっていた。
見たこともない花が、たくさん咲いている。色も形もばらばらなのに、不思議とまとまって見える。
花の中に、小さな家があった。
扉を叩くと、返事があった。
「はーい」
出てきたのは、背の低いおばあさんだった。
「迷った?」
「少し」
「それなら、ちょうどいいところに来たね」
おばあさんは、少年にお茶を出してくれた。甘くて、あたたかい。
「行き先がない旅はね」
おばあさんは言った。
「疲れたら、休んでいいの」
「行かなくてもいいの?」
「もちろん、ここまでにして戻ったっていい」
少年は、お茶を飲み終えて、立ち上がった。
「ありがとう」
「どういたしまして。靴に気をつけて」
「靴?」
「その靴、きっとあなたを遠くまで連れていくから」
外に出ると、空の色が少し変わっていた。
夕方が近い。
少年は、自分がずいぶん歩いたことに気づいた。
でも、疲れてはいなかった。
帰ろうか、と一瞬思った。
すると、靴が少しだけ、かかとを鳴らした。
帰ってもいいよ、という音だった。
少年は、来た道を戻った。
森は変わらず、川は同じように流れ、カメはまだ歩いていた。
「いい旅だった?」
カメが聞いた。
「うん」
「それはよかった」
家に着くと、パンの匂いがした。
母が言った。
「ちょうどよかったね」
父は、削った木を並べている。
「どこに行った?」
「どこか」
「そうか」
少年は靴を脱いだ。
振り返ると、もうその靴はなかった。
次の日も、次の週も、その靴は現れなかった。
でも、少年は知っている。
また「どこかに行こう」と思ったとき、きっと、どこかで待っている。
行き先がなくても、理由がなくても。
世界は、行こうとする足を、ちゃんと覚えているから。




