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行き先

 どこかに行こう。そう思った。

 それは、彼にとって特別な決意というほどのものではなかった。

 朝食のパンがいつもより少し固かったとか、通勤電車の広告がやけに空虚に見えたとか、その程度の理由で十分だった。


 彼は平凡な会社員だった。

 名前を言えば「ああ、あの人ね」と言われることもなく、「誰だっけ」と首をかしげられることもない、ちょうど記憶に残らない位置にいる男だ。

 成績は中くらい、友人も中くらい、幸福も不幸も中くらい。


 だから「どこかに行こう」という考えも、人生を変えるほどの爆発力はなかった。

 ただ、今日という日を、昨日と同じ棚に並べたくなかっただけだ。


 会社を休む連絡はしなかった。

 どうせ、気づかれない。


 駅に向かう途中、彼はふと、自分が行き先を決めていないことに気づいた。

 だが、それを問題だとは思わなかった。

 世の中には、行き先が決まっていないまま動き続けているものが、いくらでもある。


 駅に着くと、見慣れない券売機が増えていた。

 外見は普通だが、表示が一つだけだった。


《どこか行き》


 料金は一律。

 安くも高くもない、文句を言うほどではない金額。


 彼は少し迷ってから、切符を買った。

 切符には、駅名も路線名も書かれていない。ただ、小さくこう印字されていた。


《有効期限:未定》


「未定ってなんだ」


 小さく呟いたが、誰も反応しない。

 周囲の人々は、普通の切符を買い、普通に改札を通っていく。


 彼は改札に向かった。

 《どこか行き》の切符を入れると、改札は一瞬ためらうように沈黙し、それから静かに開いた。


 ホームには、一本だけ列車が停まっていた。

 行き先表示は空白。

 それなのに、なぜか「乗るべきだ」という確信があった。


 車内は思ったより混んでいた。

 だが、誰も会話していない。

 全員が、どこか落ち着かない表情で座っている。


 隣に座った男が、ぼそっと言った。


「あなたもですか」


「何がですか」


「どこかに行こうとしとますね」


 彼は頷いた。


「私もです。どこかに行こうと思いまして」


「どこへ行くかは?」


「決めていません」


「私もです」


 二人はそれ以上話さなかった。

 話す必要がなかった。


 列車は動き出した。

 加速も減速も曖昧で、動いているのか止まっているのか、よく分からない。


 車内アナウンスが流れた。


「次は――どこかです」


 数人が、安堵したように息をついた。

 理由は分からないが、「どこか」という言葉には、人を安心させる力があるらしい。


 最初の停車駅で、半分ほどの乗客が降りた。

 ホームは普通の街だった。

 だが、降りていく人々の顔は、少しずつ違って見えた。

 希望に満ちている者、諦めたような者、何も考えていない者。


 彼は降りなかった。

 なんとなく「ここではない」と思ったからだ。


 次の駅、その次の駅でも、同じことが起こった。

 乗客は減っていく。

 残る者たちは、だんだん無口になる。


 やがて、車内には彼と隣の男だけが残った。


「降りないんですか」


「ええ」


「さっきまでのどこかじゃ、だめですか」


「たぶん、まだ違います」


 男は少し考えてから言った。


「私は、もうどこでもいい気がします」


 列車は停まり、扉が開いた。

 男は立ち上がった。


「ここが、私のどこかです」


 そう言って、降りていった。

 彼は一人になった。


 列車は再び走り出した。

 窓の外は、だんだん風景らしきものを失っていく。

 建物は概念になり、空は色だけになる。


 次のアナウンスは、少し違っていた。


「次は――最終的などこかです」


 彼は、胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。

 だが、後悔はなかった。


 列車が停まる。

 扉が開く。


 そこには、何もなかった。

 本当に、何も。


 彼はホームに降りた。

 列車はすぐに発車し、二度と戻ってこなかった。


 しばらく立っていると、背後から声がした。


「到着ですね」


 振り返ると、係員らしき存在がいた。

 人間の形はしているが、どこか簡略化されている。


「ここはどこですか」


「あなたが、最後まで選ばなかった場所です」


「何もありませんが」


「ええ。だからこそ、来た人も少ない」


「帰れますか」


「帰ろうと思えば」


「思わなければ?」


「ここにいます」


 彼は周囲を見渡した。

 何もない。

 だが、不思議と落ち着いていた。


「ここで、何をすれば」


「何もしなくていい」


「それは……」


「多くの人が、途中で降ります。何かをしたがるから」


 彼は少し笑った。


「私は、ただどこかに行きたかっただけです」


「ええ。理想的です」


 係員は満足そうに頷いた。


「あなたは、行き先を求めなかった。だから、ここに来た」


「ここは、幸せですか?」


「測定不能です」


「では、不幸ですか?」


「それも測定不能です」


 彼は考えた。

 考えてから、考えるのをやめた。


 どこかに行こうと思った。

 それだけで、十分だったのだ。


 しばらくして、彼は気づいた。

 ここでは、時間が進まない。


 いや、正確には、進む必要がない。


 その頃、元の世界では、彼の不在は誰にも気づかれなかった。

 会社は回り、電車は走り、「どこかに行こう」と思った人々は、今日も切符を買っている。


 だが、そのうちの何人かは、最後まで降りない。


 そういう人間のために、

 今日も列車は走っている。


 行き先を持たないまま。

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