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駅のない町で

 どこかに行こう。そう思った。

 そう思った瞬間のことを、私は今でも正確に覚えている。

 なぜなら、その「思い」は、私の中に初めて生まれた感情だったからだ。


 私は町だ。

 地図に載るほど大きくもなく、消えるほど小さくもない、名前だけは一応与えられている町。

 人は私を通り過ぎ、住み、離れていくが、私は基本的に動かない。

 動かないということが、私の仕事であり、性質であり、誇りでもあった。


 それでも、あの日。

 一人の人間が私の中で立ち止まり、そして心の中で「どこかに行こう」と思ったとき、私は初めて、自分がここにあることを意識した。


 その人は朝、少し遅めに起きた。

 カーテンを開ける音、ため息、床を歩く足音。

 私はそういう小さな振動を全部知っている。

 人が自分では覚えていないことを、私は覚えている。


 その人は駅へ向かった。

 私には駅がない。

 正確に言えば、昔はあったが、なくなった。

 だから彼は隣町まで歩いた。

 私の端から端までを、迷いながら、確かめるように。


 私はその背中を見送った。

 見送る、という感覚も、実はそのとき初めて知った。

 これまでは人が去っても、それはただの人口移動でしかなかった。

 でもその日は違った。

 その人の足取りは、私から何かを連れて行った。


 思考だ。

 ここに留まっていたはずの「問い」を、その人は持ち出していった。


「ここじゃない気がする」


 彼は誰にも聞こえない声で、そう呟いた。

 町である私は、その声を聞いた。そして、少しだけ傷ついた。


 ここじゃない。

 ここでは足りない。

 ここでは終われない。


 そう言われたような気がした。


 けれど同時に、私は奇妙な誇らしさも感じていた。

 ここにいたからこそ、その人は「行こう」と思えたのだ。

 何もない場所では、行きたいとも思えない。


 隣町の駅から、彼は電車に乗った。

 私はそこから先を直接見ることはできない。

 だが、人が戻ってくるとき、体や声に付着している「よそ」を感じ取ることができる。

 それは匂いのようで、記憶のようで、少しだけ異物だ。


 夕方、私は待った。

 町は待つことに慣れている。

 待つことしかできないとも言える。

 人が帰ってくるかどうかは、私には決められない。


 日が傾き、影が伸び、店の明かりが点き始めたころ、私は気づいた。

 その人が戻ってこない可能性を、私は初めて考えていた。


 もし戻らなかったら。

 それは裏切りだろうか。

 それとも成長だろうか。


 答えは分からない。

 町は答えを持たない。

 だから町は問いだけを溜め込む。


 夜になり、空気が冷え、道路の熱が引いていく。

 そのとき、私は微かな足音を感じた。

 遠く、私の境界の向こうから。


 その人は戻ってきた。

 少しだけ歩き方が変わっていた。

 速くも遅くもないが、以前より迷いが少なかった。


「ただいま」


 誰に向けた言葉でもないその声を、私は確かに受け取った。


 その人は私の中の家に入り、灯りを点け、窓を開けた。

 外の空気が流れ込む。

 私は、その空気に混じって、知らない町の匂いを感じた。

 電車の音、見知らぬ公園、知らない人の声。


 それらは私を壊さなかった。

 むしろ、少しだけ広げた。


 その夜、その人は机に向かい、何も書かずにしばらく座っていた。

 そして、また心の中で思った。


 どこかに行こう。


 私はその思いを、今度は引き留めなかった。

 町は、人を縛る場所ではない。

 戻ってこられる場所であれば、それでいい。


 翌日も、その人は私の中で生活を続けた。

 すぐに去るわけではなかった。

 でも、もう違っていた。

 その人の居場所は「ここだけ」ではなくなっていた。


 私は知った。

 人がどこかへ行きたいと思うとき、それは今いる場所を否定することではない。

 今いる場所を、持ち運べるものに変えることなのだ。


 町である私は、動けない。

 けれど、人の中に入って、一緒に動くことはできる。


 だから今日も、私はここにある。

 誰かが「どこかに行こう」と思う、その瞬間のために。

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― 新着の感想 ―
まるで詩のようにも読み取れる文体が読んでて心地いいです。 私は町だ・・・とても良い響きを感じました。 ゆっくり楽しませていただきますね。 もしお時間がありましたら、わたくしのところにも一度遊びにいらし…
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