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遠くの灯り

 どこかに行こう。そう思った。


 理由はなかった。いや、正確には、理由に名前をつけることができなかった。喉の奥に引っかかった小骨のような違和感が、ここではないどこかへと背中を押している。それだけだった。


 部屋は静かだった。時計の秒針だけが、律儀に時間を刻んでいる。机の上には読みかけの本と、冷めたコーヒー。それらはすべて、ここに留まる理由のようでいて、同時に、ここから離れる理由にもなり得た。


 鞄に何を入れるべきか、しばらく考えたが、結局ほとんど何も入れなかった。財布と、スマートフォンと、薄い上着。それだけで十分な気がした。どこへ行くかも決めていないのだから、準備のしようもない。


 玄関の扉を開けると、夜の匂いがした。昼間の残り香をわずかに含みながら、しかし確実に、夜はそこにあった。


 歩き出す。


 行き先は決めない。足の向くままに進む。そう決めた瞬間、不思議と足取りが軽くなった。


 住宅街は眠り始めていた。ところどころに灯る窓の明かりが、誰かの生活を静かに語っている。テレビの音が漏れ聞こえる家、笑い声がかすかに響く家、完全に闇に沈んだ家。それぞれが、それぞれの夜を持っていた。


 そのすべてが、少し遠い。


 自分もまた、あのどれかの中にいたはずなのに、いまはどこにも属していないような気がした。


 駅前に出ると、まだ人通りがあった。コンビニの前で立ち話をする若者たち、足早に帰路につく会社員、スマートフォンを見ながら歩く誰か。誰もが、どこかへ向かっている。


 自分だけが、どこへも向かっていない。


 ふと、電車に乗ってみようと思った。


 改札を通り、ホームへ降りる。電光掲示板にはいくつかの行き先が並んでいる。見慣れた地名もあれば、聞いたことのないものもある。


 その中から、いちばん遠そうな名前を選んだ。


 理由は、それだけで十分だった。


 電車は空いていた。座席に腰を下ろし、窓の外を見る。ホームがゆっくりと後ろへ流れていき、やがて暗闇に溶けていく。


 揺れに身を任せていると、次第に思考がぼやけていく。どこへ行くのか、なぜ行くのか、そんなことはどうでもよくなっていった。


 ただ、ここではないどこかへ向かっているという事実だけが、心地よかった。


 いくつかの駅を過ぎたころ、向かいの席に一人の女性が座った。


 年齢はよく分からない。若くも見えるし、どこか落ち着いた雰囲気もある。長い髪をひとつにまとめ、静かに窓の外を見ていた。


 その横顔に、なぜか既視感を覚えた。


 けれど、どこで会ったのか思い出せない。


 しばらくして、電車が大きく揺れた。女性の持っていた小さな紙袋が、足元に落ちる。


 思わず手を伸ばして拾い上げた。


「あ、ありがとうございます」


 女性は小さく頭を下げた。その声もまた、どこかで聞いたことがあるような気がした。


「いえ」


 それだけ言って、紙袋を渡す。


 それ以上の会話はなかった。けれど、不思議と気まずさはなかった。


 しばらくして、女性が口を開いた。


「どこまで行くんですか」


 突然の問いに、少し戸惑う。


「決めていません」


 正直に答えると、女性は少しだけ笑った。


「いいですね」


「そうですか」


「ええ。行き先が決まっていないほうが、遠くまで行ける気がします」


 その言葉に、なぜか納得してしまう。


「あなたは?」


 尋ねると、女性は一瞬だけ考えるような顔をした。


「帰るところです」


「どこから?」


「遠いところから」


 曖昧な答えだった。けれど、それ以上聞く気にはならなかった。


 電車はさらに進む。窓の外はすっかり暗くなり、時折、遠くに小さな灯りが見えるだけになった。


「灯りって、不思議ですよね」


 女性がぽつりと言う。


「遠くにあると、あそこに何かがあるって思える」


「ありますよ、きっと」


「でも、近づくと、ただの家だったりする」


 その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。


「それでも、遠くから見ると、特別に見えるんです」


 女性は窓の外を見つめたまま続ける。


「人も、そうかもしれませんね」


 返す言葉が見つからなかった。


 電車が減速し、次の駅に到着する。


 聞いたことのない名前の駅だった。


 女性が立ち上がる。


「ここで降ります」


「そうですか」


「あなたは?」


「もう少し、行ってみます」


 そう答えると、女性は小さく頷いた。


「きっと、いいところに着きますよ」


 そう言って、ドアのほうへ向かう。


 ふと、呼び止めたくなった。


 何を言うわけでもない。ただ、ここで別れるのが惜しい気がした。


 けれど、言葉は出てこなかった。


 ドアが開き、女性はホームへ降りる。


 その背中を、ただ見送る。


 ドアが閉まり、電車が再び動き出す。


 ホームがゆっくりと遠ざかる。


 そのとき、女性が振り返った。


 そして、ほんのわずかに手を振った。


 それが、別れの合図だったのか、それとも何か別の意味を持っていたのかは分からない。


 ただ、その瞬間、胸の中の違和感が少しだけ軽くなった気がした。


 電車はさらに進む。


 やがて、終点に着いた。


 降りる。


 駅はひっそりとしていた。改札を抜けると、広い空が広がっている。


 見上げると、星がいくつも瞬いていた。


 こんなに空が広かったことを、忘れていた気がする。


 しばらくその場に立ち尽くす。


 ここがどこなのかは分からない。


 けれど、ここでもいいと思えた。


 ポケットからスマートフォンを取り出す。


 電波はかろうじて届いている。


 けれど、誰かに連絡を取る気にはならなかった。


 ただ、画面を消して、再び空を見上げる。


 遠くに、小さな灯りが見えた。


 あそこにも、誰かの生活があるのだろう。


 笑い声や、沈黙や、言葉にならない何かが。


 それらすべてが、遠くから見ると、ただの灯りになる。


 それでも、その灯りに、名前をつけたくなる。


 あそこには、きっと何かがある、と。


 歩き出す。


 あの灯りのほうへ。


 理由は、やはり分からない。


 けれど、それでよかった。


 どこかに行こうと思った、その続きを、まだ歩いているだけなのだから。

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