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旅立ちのための風

 どこかに行こう。そう思った。


 それは、まだ風にもなっていない、小さな空気のかたまりの思いつきだった。


 空気というものは、ふだんは自分のことを考えたりしない。山の上を流れたり、森を抜けたり、町のすきまを通ったりしながら、ただなんとなく動いているだけだ。


 けれど、その朝の空気は少しちがっていた。


 春が近かった。


 雪の残る山のふもとで、土がゆるみはじめていた。川の水は冷たいままだが、流れは少しだけ軽くなっている。遠くの森では、まだ芽の出ていない木々が、眠たそうに空を見上げていた。


 そのあいだを、ひとつの小さな空気のかたまりが、ぼんやり漂っていた。


 まだ名前もない。


 風とも呼ばれない。


 ただの空気だ。


 けれどその空気は、ふと思ったのだ。


 どこかに行こう。


 理由は、よくわからない。


 ただ、胸の奥が、ふわっと軽くなるような感じがした。


「どこへ?」


 声がした。


 見ると、近くの雪が言ったのだった。


 雪は、冬のあいだずっとそこに積もっていた。少しずつ溶けながら、静かに地面へ帰ろうとしている。


「わからない」


 空気は答えた。


「でも、行きたいんだ」


 雪はくすりと笑った。


「それなら、いい季節だね」


「どうして?」


「春だから」


 雪は少し考えてから、ゆっくり言った。


「春はね、いろんなものが出かけていく季節なんだよ」


 そのとき、地面の下で小さな音がした。


 ぱき。


 ぱき。


 土の中から、細い芽が顔を出す。


 まだ小さな草の芽だった。


「こんにちは」


 芽は言った。


 声はとても小さい。


「こんにちは」


 空気も言った。


「きみ、出てきたばかり?」


「うん」


 芽は言った。


「ちょっとこわかったけど」


「どうして?」


「だって、土の外は知らないところだから」


 芽はそう言って、空を見上げた。


 青い空だった。


 その青さは、土の中では想像もできなかったものだ。


「でもね」


 芽は続けた。


「出てきてよかったと思う」


「どうして?」


「広いから」


 空気は、その言葉を聞いて、また胸が軽くなった。


 広い。


 その感じを、自分も知りたいと思った。


「ぼく、行ってくる」


 空気は言った。


「どこへ?」


「わからない」


 芽は笑った。


「それ、旅っていうんだよ」


 空気は少し動いた。


 ほんの少し。


 けれど、それは確かに前へ進む動きだった。


 山の斜面をすべるように下りる。


 森へ入る。


 森はまだ静かだった。


 冬の眠りが残っている。


 枝には葉がなく、光がまっすぐ地面まで落ちている。


 そのとき、木が言った。


「おや」


 大きなブナの木だった。


「めずらしい空気だね」


「どうして?」


 空気は聞いた。


「行き先を探している顔をしている」


 空気は驚いた。


「わかるの?」


「長く立っているとね、いろんな風を見てきたから」


 木はゆっくり枝を揺らした。


「風には二種類ある」


「二種類?」


「帰る風と、出ていく風だ」


 空気は少し考えた。


「ぼくはどっち?」


 木は笑った。


「まだ風になっていない」


「え?」


「でも、きっとそのうちわかる」


 そのとき、遠くから声が聞こえた。


「やあ!」


 元気な声だった。


 森の奥から、強い風が吹いてきた。


 春の風だ。


 まだ冷たいが、勢いがある。


「新人かい?」


 風が言った。


「うん」


 空気は答えた。


「旅に出たいんだ」


 風はくるくる回った。


「いいね!」


「でも、どこへ行けばいいのかわからない」


 すると風は言った。


「それでいい」


「え?」


「旅のはじめは、だいたいそんなものだ」


 風は森を抜けて、空へ上がる。


「ついておいで」


 空気は少し迷った。


 でも、すぐに決めた。


 ついていこう。


 それが、はじめての門出だった。


 二つの空気は、空へ上がった。


 山を越えた。


 川の上を通った。


 町の屋根をなでた。


 町では、子どもたちが歩いていた。


 背中に大きなかばんを背負っている。


「今日から学校だって」


 風が言った。


「学校?」


「うん。新しい場所へ行く日」


 子どもたちは少し緊張した顔をしていた。


 でも、その中に、わくわくした光もある。


 空気はそれを見て思った。


 みんな、どこかに行こうとしている。


 自分と同じだ。


 さらに進む。


 丘を越える。


 海が見えてきた。


 海は広かった。


 光がきらきらしている。


 空気は驚いた。


「こんな場所があるんだ」


「まだまだあるよ」


 風は言った。


「世界は広い」


 そのとき、風は少しゆっくりになった。


「ここから先は、自分で行くといい」


「え?」


 空気は驚いた。


「もう一緒に行かないの?」


 風は笑った。


「門出っていうのはね」


 少しだけ遠くを見る目で言った。


「誰かに連れていってもらうものじゃない」


「じゃあ?」


「自分で進むもの」


 空気は、海の上を見た。


 遠くまで、ずっと続いている。


 少しこわい。


 でも。


 胸が軽い。


「わかった」


 空気は言った。


「行ってみる」


 そして、ゆっくり動いた。


 それはもう、ただの空気ではなかった。


 小さな風になっていた。


 海の上をすべる。


 光のあいだを通る。


 遠くへ。


 もっと遠くへ。


 その風は、どこへ行くのか、まだ知らない。


 けれど、もう迷ってはいなかった。


 どこかに行こう。


 そう思ったその日から、世界はずっと広がり続けていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


登録から11年、どこに向かっているかは不明ですが、それぞれ自分でやりたいことに進んでいけたら良いのではないかと思っています。

進んでいけるよう全55話(GO GO)にしました。


自分も楽しんでますが、皆さまの創作活動も楽しいものでありますように。

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