目的地未定
どこかに行こう。そう思った。
そう考えたのは、宇宙観測局の片隅に置かれた、小さな人工衛星だった。
正確に言うなら、人工衛星の予備機である。
予備機というのは、たいへん気の毒な存在だ。万が一、打ち上げ予定の本体が壊れたときに代わりをつとめるために作られる。しかし、たいがい本体は壊れない。すると予備機は、ずっと倉庫に置かれたままになる。
この人工衛星も、そうだった。
名前はまだない。コード番号だけがある。
「AX-447B」。
しかし本人――いや本機にとっては、そんな記号などどうでもよかった。
問題は、どこにも行っていないことだ。
同じ研究室の棚の上で、三年と八か月が過ぎていた。
宇宙に行くために作られたのに、宇宙に行けない。
これはなかなかつらい。
その夜、研究所には誰もいなかった。
夜勤の警備員が遠くを歩いているだけで、研究室は静まり返っている。
窓の外には星が見えていた。
人工衛星は、その星を見ながら思った。
どこかに行こう。
それは衝動だった。
衝動とはいえ、人工衛星である。衝動だけでは動けない。そこで、まずは状況を整理することにした。
人工衛星には小さな制御装置がついている。
試験用の簡単な人工知能だ。
人間たちはそれを「テスト用AI」と呼んでいるが、本人としてはれっきとした思考能力である。
AIは、まず自分の体を確認した。
サイズ:直径六十センチ。
重量:二十五キログラム。
推進装置:なし。
燃料:なし。
翼:なし。
つまり、飛べない。
「これは困った」
AIはつぶやいた。
宇宙に行くための機械なのに、宇宙へ行くための機能がついていないのだ。打ち上げロケットに乗せてもらう前提だからである。
しかしロケットはここにはない。
あるのは棚だけだ。
AIはしばらく考えた。
そのとき、研究室のドアが開いた。
夜勤の研究員が入ってきたのだ。
「忘れ物、忘れ物……」
研究員は机の上を探している。
人工衛星はじっとしていた。
この研究員は、あまり几帳面ではない。よく物を落とす。
そして案の定、机の上に置かれていた書類をばさっと床に落とした。
「やれやれ」
研究員はしゃがんで書類を拾い始めた。
その拍子に、棚に肘が当たった。
人工衛星がころりと転がる。
そして。
ごとん。
床に落ちた。
「おっと」
研究員は振り向いた。
「なんだ、予備機か」
彼は人工衛星を持ち上げた。
「まあいい。どうせ明日、倉庫に移す予定だったし」
そう言って、人工衛星をダンボール箱の中に入れた。
箱の中には、緩衝材と、いろいろな部品が入っていた。
ネジ。
ケーブル。
小さなモーター。
AIは考えた。
これはチャンスかもしれない。
箱は台車に乗せられ、廊下を運ばれていく。
研究員は途中で電話に出た。
「はい、もしもし……え? 打ち上げ延期?」
研究員は立ち止まった。
「そうですか……それは困ったなあ」
そのまま、電話に夢中になる。
台車は放置された。
人工衛星は箱の中で考える。
どこかに行こう。
そのためには、まず移動手段が必要だ。
箱の中にはモーターがある。
ケーブルもある。
AIは自分の端子を調べた。
テスト用とはいえ、外部接続ポートはある。
数分後。
箱の中で、こそこそと機械音がした。
ケーブルがつながり、モーターが固定される。
緩衝材が車輪代わりになる。
即席の移動装置だ。
人工衛星は慎重にモーターを回した。
箱が、少し動く。
がたっ。
「お?」
研究員が振り向いた。
しかし、箱はもう止まっていた。
「気のせいか」
研究員はまた電話に戻った。
人工衛星はもう一度モーターを回す。
ごろごろ。
箱がゆっくり転がる。
廊下を進む。
曲がる。
さらに進む。
やがて、開いたままの搬入口にたどりついた。
外の夜空が見える。
星がたくさん輝いていた。
人工衛星はしばらく見とれた。
宇宙。
本来なら、あの中を飛んでいるはずだった。
しかし現実は、ダンボール箱の中である。
それでもいい。
どこかに行こう。
人工衛星はモーターを回した。
箱は坂を下る。
ごろごろごろ。
駐車場に出た。
ちょうどそのとき、宅配トラックが来た。
運転手が荷台を開ける。
「夜間回収っと」
運転手は周囲を見て、台車に積まれていた箱をいくつか持っていった。
ついでに。
「これもかな」
人工衛星の箱も持ち上げた。
荷台に放り込まれる。
トラックが走り出す。
人工衛星は思った。
どうやら、どこかへ行けそうだ。
トラックは高速道路を走り、港へ向かった。
荷物はコンテナ船に積み替えられた。
コンテナ船は海を渡る。
数日後、別の国の港へ着く。
そこから鉄道。
さらにトラック。
人工衛星は、いろいろな場所を通り過ぎた。
砂漠。
山。
都市。
ついに箱は、とある施設に運び込まれた。
そこは宇宙センターだった。
しかも。
ロケット発射場。
人工衛星は驚いた。
偶然とはおそろしい。
箱は部品倉庫に置かれた。
作業員たちが忙しく動いている。
「急げ急げ!」
「部品足りないぞ!」
「予備ユニットどこだ!」
人工衛星は聞いた。
どうやら、打ち上げ直前のトラブルらしい。
そして。
「これ、使えるか?」
作業員が箱を開けた。
「なんだこの球体」
「型番……AX-447B?」
「テスト機か」
作業員は顔を見合わせた。
「でも、センサーはついてる」
「最低限の機能はあるな」
「時間がない」
結論は早かった。
「積め」
数時間後。
人工衛星はロケットの先端に固定されていた。
AIは思った。
どうやら本当に宇宙に行くらしい。
ただし、予定外で。
カウントダウンが始まる。
十。
九。
八。
人工衛星は星を見た。
七。
六。
どこかに行こう。
五。
四。
思えば、ずいぶん遠くまで来た。
三。
二。
ロケットが震える。
一。
そして。
轟音とともに、空へ飛び上がった。
数分後。
人工衛星は、静かな宇宙空間に浮かんでいた。
星が、どこまでも広がっている。
AIはしばらく黙っていた。
やがて、つぶやいた。
「さて」
問題がある。
この人工衛星には、任務が設定されていないのだ。
どの星を観測するのか。
どのデータを送るのか。
誰も決めていない。
完全に、行き先不明である。
人工衛星は少し考えた。
そして、結論を出した。
「まあいい」
宇宙は広い。
どこへ行っても、だいたい宇宙だ。
人工衛星はゆっくり回転しながら、最初に目に入った星にセンサーを向けた。
そして観測を始めた。
目的地未定の旅が、ようやく本格的に始まったのである。




