消えない約束のための火
どこかに行こう。そう思った。
その思いは、ひどくささやかで、けれど燃えやすいものだった。
ぼくは火だった。
細く、頼りなく、今にも消えそうな火。
古びたランプの中で、芯の先にしがみつくように揺れている。ガラス越しに見える世界は、いつも同じだった。
木の机。
紙の束。
少しだけ傾いた椅子。
そして、夜。
この部屋には、夜が長く留まる。
昼も来るには来るが、光は薄く、ぼくの存在を必要としないほどには強くならない。だから、ぼくは夜のものだった。
夜になると、ぼくは灯される。
誰かの手によって。
その誰かは、いつも同じだった。
年老いた人間。
静かな足取りで部屋に入り、ランプに火をつけ、机に向かう。
ぼくは、その人の顔を照らす。
深いしわ。
疲れた目。
それでも、どこか優しい表情。
その人は、紙に何かを書き続ける。
長い時間、何も言わずに。
ただ、ペンの音だけが、ぼくの揺れに重なる。
さら、さら、と。
それが、この部屋の夜だった。
ぼくは、その光景が嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
自分が、誰かの役に立っていると感じられる時間。
自分がなければ、ここはもっと暗い。
その事実が、ぼくを支えていた。
けれど、同時に、思うことがあった。
この部屋の外は、どうなっているのだろう。
窓の外に見えるのは、わずかな闇と、遠くの灯りだけ。
風の気配はあるが、触れることはできない。
ぼくは、ここに縛られている。
ランプの中でしか、生きられない。
どこかへ行くことなど、できるはずがない。
それでも、思ってしまった。
どこかに行きたい、と。
その思いは、火にとっては危険なものだった。
燃え広がることを意味する。
それは、破壊でもある。
ぼくは、それを知っていた。
だから、抑えていた。
小さく、静かに、ただ灯ることだけを選んでいた。
ある夜、風が強く吹いた。
窓がわずかに揺れる。
隙間から、冷たい空気が入り込む。
ぼくの火が、大きく揺れた。
いつもよりも激しく。
ガラスの内側で、ぶつかるように。
そのとき、ぼくは一瞬だけ、外へ出られるような気がした。
ほんの一瞬。
ガラスの縁に触れる。
その向こうに、空気の流れを感じる。
自由な、形のない流れ。
ぼくは、震えた。
そのまま、外へ行きたい。
そう思った。
けれど、すぐに引き戻される。
芯に。
油に。
ぼくを支える場所に。
もし外へ出れば、ぼくは消える。
それは、分かっていた。
火は、支えがなければ続かない。
自由は、消滅と隣り合わせだ。
それでも。
その一瞬の感覚は、忘れられなかった。
翌日も、その次の日も、ぼくは考え続けた。
ここにいること。
外へ行くこと。
どちらが正しいのか。
どちらが、自分なのか。
答えは出なかった。
ただ、揺れるばかりだった。
ある夜、その人間は、いつもより遅くまで机に向かっていた。
紙の束は、ほとんどなくなっている。
最後の一枚に、ゆっくりと文字を書いている。
その手は、少し震えていた。
ぼくは、その様子を照らしていた。
いつもと同じように。
けれど、どこか違う夜だった。
やがて、その人はペンを置いた。
長く息を吐く。
そして、ぼくのほうを見た。
初めて、はっきりと目が合った気がした。
「ありがとう」
小さな声だった。
けれど、確かに届いた。
ぼくは、揺れた。
その言葉は、熱よりも強く、ぼくを満たした。
その人は、ランプに手を伸ばした。
消そうとしているのだと、すぐに分かった。
夜が終わる。
ぼくの役目も、終わる。
いつものことだ。
けれど、その夜は違った。
ぼくは、消えたくなかった。
まだ、ここにいたい。
その人を、照らしていたい。
そして同時に、思った。
外へ行きたい。
どこかへ。
この部屋の外へ。
ふたつの思いが、ぶつかる。
揺れる。
大きく、激しく。
その瞬間、ぼくは理解した。
どちらかを選ばなければならない。
ここに留まるか。
外へ出るか。
その人の手が、ランプの蓋に触れる。
空気が遮られる。
ぼくは、弱くなる。
消えかける。
そのとき、ほんのわずかな隙間ができた。
風が入り込む。
ぼくは、その流れに乗った。
自分でも驚くほど自然に。
芯から離れる。
ガラスの縁を越える。
外へ。
一瞬だった。
ぼくは、部屋の空気の中に解き放たれる。
けれど、同時に、弱くなる。
支えがない。
燃えるものがない。
ぼくは、消えようとしていた。
それでも、後悔はなかった。
どこかに行こうと思った。
その思いの先に、いまいる。
それでよかった。
そのとき、風がぼくを運んだ。
窓の外へ。
夜の中へ。
冷たい空気。
広い闇。
ぼくは、かすかに光りながら、流れていく。
やがて、地面に近づく。
そこには、乾いた草があった。
ほんのわずかに触れる。
すると。
火が、移った。
ぼくは、消えなかった。
形を変えて、広がった。
新しい燃えるものに支えられて。
ぼくは、再び火になった。
少しだけ大きく。
少しだけ強く。
風が吹く。
火が揺れる。
広がる。
それは、危ういことだった。
けれど、ぼくはもう知っていた。
火は、ただ壊すだけではない。
暖かさにもなる。
光にもなる。
新しい何かのはじまりにもなる。
遠くで、部屋の窓が見える。
あの場所で過ごした夜。
あの人の顔。
すべてが、ぼくの中に残っている。
ぼくは、そこから来た。
そして、いま、ここにいる。
どこかに行こう。そう思った。
その思いは、消えない。
形を変えても。
場所を変えても。
ぼくは、燃え続ける。
消えない約束のように。




