少しの手伝い
どこかに行こう。そう思った。
それは特別な朝ではなかったし、劇的な決意でもなかった。コーヒーの味はいつも通りで、窓の外の空も昨日とほとんど同じ色をしていた。ただ、胸の奥で何かが軽く鳴った。その音が、「今日は動いてもいいよ」と言っているような気がした。
彼はその音を無視しなかった。
無視しなかった、というだけで、彼は自分を少し誇らしく思えた。
会社を休む連絡を入れ、返事が来る前にスマートフォンを伏せた。理由は「私用」。それ以上説明する必要はないし、説明したところで正確にはならない。
どこかに行こう、なのだから。
外に出ると、街はちゃんと動いていた。人は歩き、車は止まり、信号は信号の仕事をしている。世界は、彼一人が抜けても困らないくらい、うまくできている。
それが少し、ありがたかった。
彼は駅に向かった。
どの駅かは決めていない。だが、足は自然と一番近い駅へ向かっていた。人は、いざ自由になると、案外いつもの癖を頼りにする。
改札の前で、彼は立ち止まった。
切符を買うべきか、ICカードを使うべきか、その程度の迷いだ。
そのとき、見慣れない券売機が目に入った。
形は普通。色も普通。
ただ、表示が一つしかない。
《どこか行き》
彼は笑った。
今日は、そういう日らしい。
ボタンを押すと、金額が表示された。高くも安くもない。文句を言うほどではないし、覚悟を決めるほどでもない。
切符が出てきた。
行き先は書いていない。
「まあ、いいか」
彼は改札を通った。
切符は、何の抵抗もなく吸い込まれ、何事もなかったかのように戻ってきた。
ホームには列車が一本停まっていた。
行き先表示は空白。
それでも、乗客はそれなりにいる。皆、穏やかな顔をしていた。急いでいる人も、苛立っている人もいない。
彼は座席に腰を下ろした。
隣に座った女性が、ちらりと切符を見て微笑んだ。
「あなたも?」
「たぶん、はい」
「どこかに?」
「ええ」
「いいですね」
それだけ言って、彼女は窓の外を見た。
それ以上、言葉は要らなかった。
列車が動き出す。
アナウンスが流れる。
「次は――どこかです」
車内に、くすっと小さな笑いが広がった。
それは、不安を笑いに変える種類の笑いだった。
最初の駅で、何人かが降りた。
降りる人たちは、みんな少し晴れやかな顔をしている。
「ここが、私のどこかでした」
誰かがそう言って、手を振った。
列車は進む。
景色は、見覚えがあるようで、少し違う。街の色が柔らかく、空が近い。
彼は、途中で降りなかった。
降りる理由がなかったからだ。
次の駅、その次の駅でも、同じことが起こる。
人は減り、車内は静かになる。
終点が近づいた頃、車内には彼と、数人だけが残っていた。
アナウンスが言う。
「次は、終点です。まだ降りていない方は、ここがあなたのどこかになるかもしれません」
列車が止まり、扉が開く。
そこは、小さな町だった。
派手なものは何もない。だが、空気がやさしい。
彼は降りた。
町の人たちは、彼を特別扱いしなかった。
だが、無視もしなかった。
「こんにちは」
「こんにちは」
それだけで、十分だった。
彼は町を歩いた。
パン屋があり、本屋があり、小さな公園がある。どれも完璧ではないが、ちゃんと使われている。
ベンチに座ると、子どもが話しかけてきた。
「どこから来たの?」
「どこかから」
「じゃあ、ここはどこ?」
彼は少し考えてから答えた。
「今いる場所」
子どもは満足そうに頷いて、走っていった。
夕方になると、空がきれいに焼けた。
彼は、その空をちゃんと見ている自分に気づいた。
スマートフォンを見ると、会社から返信が来ていた。
《了解しました。ゆっくりしてください》
それだけだった。
世界は、思ったよりも優しい。
彼は、ここに住むことも、帰ることも、どちらも選べると分かった。
どちらを選んでも、間違いではない。
夜、彼は空を見上げて思った。
どこかに行こうと思っただけで、
こんなに遠くまで来られた。
それなら、また戻ることもできるだろう。
大事なのは、
「行こう」と思える心が、ちゃんと自分の中にあることだ。
世界は、それを取り上げたりしない。
せいぜい、少し手伝ってくれるだけだ。
列車は、明日も走る。
《どこか行き》として。
そして誰かが、ふとした朝に思う。
どこかに行こう。
それでいい。




