表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/55

少しの手伝い

 どこかに行こう。そう思った。

 それは特別な朝ではなかったし、劇的な決意でもなかった。コーヒーの味はいつも通りで、窓の外の空も昨日とほとんど同じ色をしていた。ただ、胸の奥で何かが軽く鳴った。その音が、「今日は動いてもいいよ」と言っているような気がした。


 彼はその音を無視しなかった。

 無視しなかった、というだけで、彼は自分を少し誇らしく思えた。


 会社を休む連絡を入れ、返事が来る前にスマートフォンを伏せた。理由は「私用」。それ以上説明する必要はないし、説明したところで正確にはならない。


 どこかに行こう、なのだから。


 外に出ると、街はちゃんと動いていた。人は歩き、車は止まり、信号は信号の仕事をしている。世界は、彼一人が抜けても困らないくらい、うまくできている。


 それが少し、ありがたかった。


 彼は駅に向かった。

 どの駅かは決めていない。だが、足は自然と一番近い駅へ向かっていた。人は、いざ自由になると、案外いつもの癖を頼りにする。


 改札の前で、彼は立ち止まった。

 切符を買うべきか、ICカードを使うべきか、その程度の迷いだ。


 そのとき、見慣れない券売機が目に入った。


 形は普通。色も普通。

 ただ、表示が一つしかない。


《どこか行き》


 彼は笑った。

 今日は、そういう日らしい。


 ボタンを押すと、金額が表示された。高くも安くもない。文句を言うほどではないし、覚悟を決めるほどでもない。


 切符が出てきた。

 行き先は書いていない。


「まあ、いいか」


 彼は改札を通った。

 切符は、何の抵抗もなく吸い込まれ、何事もなかったかのように戻ってきた。


 ホームには列車が一本停まっていた。

 行き先表示は空白。


 それでも、乗客はそれなりにいる。皆、穏やかな顔をしていた。急いでいる人も、苛立っている人もいない。


 彼は座席に腰を下ろした。

 隣に座った女性が、ちらりと切符を見て微笑んだ。


「あなたも?」


「たぶん、はい」


「どこかに?」


「ええ」


「いいですね」


 それだけ言って、彼女は窓の外を見た。

 それ以上、言葉は要らなかった。


 列車が動き出す。

 アナウンスが流れる。


「次は――どこかです」


 車内に、くすっと小さな笑いが広がった。

 それは、不安を笑いに変える種類の笑いだった。


 最初の駅で、何人かが降りた。

 降りる人たちは、みんな少し晴れやかな顔をしている。


「ここが、私のどこかでした」


 誰かがそう言って、手を振った。


 列車は進む。

 景色は、見覚えがあるようで、少し違う。街の色が柔らかく、空が近い。


 彼は、途中で降りなかった。

 降りる理由がなかったからだ。


 次の駅、その次の駅でも、同じことが起こる。

 人は減り、車内は静かになる。


 終点が近づいた頃、車内には彼と、数人だけが残っていた。


 アナウンスが言う。


「次は、終点です。まだ降りていない方は、ここがあなたのどこかになるかもしれません」


 列車が止まり、扉が開く。


 そこは、小さな町だった。

 派手なものは何もない。だが、空気がやさしい。


 彼は降りた。


 町の人たちは、彼を特別扱いしなかった。

 だが、無視もしなかった。


「こんにちは」


「こんにちは」


 それだけで、十分だった。


 彼は町を歩いた。

 パン屋があり、本屋があり、小さな公園がある。どれも完璧ではないが、ちゃんと使われている。


 ベンチに座ると、子どもが話しかけてきた。


「どこから来たの?」


「どこかから」


「じゃあ、ここはどこ?」


 彼は少し考えてから答えた。


「今いる場所」


 子どもは満足そうに頷いて、走っていった。


 夕方になると、空がきれいに焼けた。

 彼は、その空をちゃんと見ている自分に気づいた。


 スマートフォンを見ると、会社から返信が来ていた。


《了解しました。ゆっくりしてください》


 それだけだった。

 世界は、思ったよりも優しい。


 彼は、ここに住むことも、帰ることも、どちらも選べると分かった。

 どちらを選んでも、間違いではない。


 夜、彼は空を見上げて思った。


 どこかに行こうと思っただけで、

 こんなに遠くまで来られた。


 それなら、また戻ることもできるだろう。


 大事なのは、

 「行こう」と思える心が、ちゃんと自分の中にあることだ。


 世界は、それを取り上げたりしない。

 せいぜい、少し手伝ってくれるだけだ。


 列車は、明日も走る。

 《どこか行き》として。


 そして誰かが、ふとした朝に思う。


 どこかに行こう。

 それでいい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ