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門は開く

 どこかに行こう。そう思った。

 その瞬間、私は初めて、自分の影が遅れて動くのを見た。


 朝だった。正確には、朝と呼ばれる時間帯だった。空は明るく、時計は正しい時刻を示している。それなのに、世界の反応が一拍ずつ遅れている。カーテンを開けると、光が部屋に入るまでに、わずかな間があった。足を踏み出すと、床がそれを理解するまでに時間がかかった。


 体調が悪いわけではない。

 寝不足でもない。

 ただ、私は思ってしまったのだ。


 どこかに行こう、と。


 それは願望でも逃避でもなかった。

 むしろ、確認に近い。


 ここが本当に「ここ」なのか。

 自分がいるべき場所は、ここでいいのか。


 そういう問いは、普段は頭の奥に沈んでいる。生活という重石に押さえつけられて、浮かび上がってこない。だが、その日は違った。問いが、水面まで上がってきて、はっきりと形を持ってしまった。


 外に出ると、街はいつも通りだった。

 人は歩き、車は走り、店は開いている。

 だが、決定的な違和感があった。


 誰も、遠くを見ていない。


 全員が、自分の足元から半径数メートルの範囲だけを見て生きている。信号、スマートフォン、目の前の人間。それ以上先を見る必要がない、という確信に満ちた顔。


 私はその中で、ひとりだけ浮いていた。

 視線が、必要以上に遠くへ行ってしまう。


 駅へ向かう途中、路地に入った。

 通ったことのない道ではない。何度も通っている。だが、その日は、道の幅が少しだけ広くなっていた。建物と建物の間に、隙間がある。


 そこに、門があった。


 門、としか言いようがない。

 石造りで、装飾も文字もない。観光名所でも、歴史的建造物でもない。ただ、門として存在している。


 通行人は誰も気に留めない。

 視線は素通りし、体も避けない。だが、ぶつかることもない。まるで、そこに何もないかのように。


 私は門の前に立った。

 近づくほど、影の遅れが大きくなる。


 門の内側は、暗かった。

 しかし、怖さはなかった。暗闇の向こうに「行ける場所」があると、直感で分かったからだ。


「行くのか」


 声がした。

 門の脇に、いつからいたのか分からない人物が立っている。年齢も性別も判断できない。服装も時代が分からない。だが、その人は門と同じ質感をしていた。


「どこへですか」


「どこでもない場所へ」


 答えになっていないが、嘘でもない響きだった。


「戻れますか」


「戻るつもりなら、行かない方がいい」


 私は少し考えた。

 考えてから、気づいた。


 私は戻れるかどうかを聞いたが、戻りたいかどうかは聞いていない。


「行きます」


 そう答えた瞬間、門が開いた。

 音はしなかった。ただ、世界の厚みが変わった。


 門の向こう側は、広い平原だった。空は低く、雲が近い。建物はなく、道もない。ただ、人が歩いた跡だけが、無数に交差している。


「ここは?」


「途中」


「どこへの?」


「それぞれの、どこか」


 人影があった。

 一人ではない。老若男女、さまざまな人間が、同じように歩いている。だが、誰一人として、同じ方向には進んでいない。


 私は歩き始めた。

 道は、自然に足元に現れる。進むたびに、地面が少し固くなる。


 しばらく歩くと、誰かが隣に並んだ。


「初めて?」


 そう聞かれて、私は頷いた。


「どこに行くの」


「分かりません」


「いいね。分かってる人は、すぐ終わるから」


「終わる?」


 その人は笑った。


「着いちゃうんだよ。行きたい場所に」


 私は少しだけ不安になった。

 だが、同時に納得もした。行き先が決まっている人間ほど、移動は短い。


 歩いていると、景色が変わる。

 森になり、砂漠になり、街になる。だが、それらはすべて未完成だった。建物は途中で終わり、道は突然途切れ、空は塗りかけのようだ。


「ここは?」


「誰かが途中でやめた場所」


 私は理解した。

 ここは、**行こうとしたが、行ききれなかった世界**だ。


 思いついた計画。

 口に出さなかった言葉。

 行かなかった場所。

 選ばなかった人生。


 それらが、地形として存在している。


 私は歩き続けた。

 疲れはない。時間も分からない。ただ、進むごとに、自分の輪郭がはっきりしていく。


 やがて、大きな湖に出た。水面は鏡のようで、覗き込むと、知らない自分が映っている。違う服、違う表情、違う年齢。


「これは?」


「行かなかったあなた」


 湖の向こうに、橋があった。

 橋の先は、白くて見えない。


「渡ると?」


「もう戻れない」


 私は立ち止まった。

 橋を渡ることが、ゴールなのだと分かった。


 だが、私はまだ「どこかに行こう」と思っただけだ。

 「ここに留まらない」とは決めていない。


 私は橋を渡らなかった。


 代わりに、湖から離れ、歩き続けた。

 すると、景色が少しずつ現実に近づいていく。未完成だった街が、完成し始める。途切れていた道が、繋がる。


「帰るの?」


 あの門の番人が、いつの間にか隣にいた。


「たぶん」


「じゃあ、まだ行けるな」


「何がですか」


「どこか」


 門が見えた。

 最初にくぐった門とは、少し違う。小さく、目立たない。だが、確かに出口だ。


 私は門をくぐった。


 次の瞬間、街の雑音が戻ってきた。

 車の音、人の声、信号の音。


 私は路地に立っていた。

 門は、もうなかった。


 影は、遅れずに動いている。


 家に戻り、鍵を開ける。

 部屋は変わっていない。時計も正しい。


 それでも私は知っている。

 どこかに行こうと思った人間にだけ、世界は門を用意する。


 次に思ったとき。

 私はまた、門を見つけるだろう。


 行くかどうかは、まだ決めていない。

 だが、それでいい。


 どこかは、いつも途中にある。

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