最後の灯台守
どこかに行こう。そう思った。
けれど私は動けない。
私は灯台だからだ。
海辺の断崖の上に、白い塔として立っている。石と鉄でできた身体を持ち、頂上には大きなレンズが据えられている。夜になると、そのレンズは光を放ち、海へ向けてゆっくりと回る。
それが私の役目だった。
ここは北の海だ。冬になると風が荒れ、波は岩を叩き砕く。霧は厚く、夜は長い。船乗りたちは昔から、この海を恐れていた。
だから私は建てられた。
ずっと昔、人間たちがここへ石を運び、土台を築き、鉄の骨を組み上げた。何十人もの手が私を形にした。最後にレンズが据えられ、灯りがともったとき、皆が拍手をした。
その音を、私は今でも覚えている。
最初の灯台守は老人だった。
髭の長い、静かな男だった。
「おまえはこの海の目になるんだ」
そう言って、私の灯りを撫でた。
それから長い年月が過ぎた。
灯台守は何人も変わった。
春が来て、夏が過ぎ、冬の嵐が何度も岩を打った。
私はただ光を回し続けた。
船が来る夜もあれば、何も通らない夜もあった。
霧の夜には、汽笛が遠くで鳴った。
そのたびに、私は少しだけ誇らしかった。
私の光が、誰かの帰り道になっている。
そう思えたからだ。
だが時代は変わる。
ある年の春、役所の人間たちがやって来た。
新しい機械を持っていた。
「自動化だ」
若い男が言った。
「これで灯台守はいらない」
古い守り人は黙っていた。
白い髭を撫でながら、私を見上げていた。
その夜、彼は塔の中で小さく笑った。
「時代だな」
それが、最後の言葉だった。
彼がいなくなってから、私はひとりになった。
灯りは機械が点ける。
レンズも自動で回る。
誰も階段を上がってこない。
誰も窓を拭かない。
人の足音が消えた塔は、とても静かだった。
それでも私は働いた。
夜になると光を回す。
海は変わらず荒れていたし、船もまだ通る。
だから私はそこにいた。
だが、さらに年月が過ぎる。
ある日、また人間が来た。
「この灯台は廃止予定です」
男が紙を見ながら言った。
「今は衛星とGPSがありますから」
もう必要ない。
そういうことだった。
工事の日取りが決まり、機械が止められることになった。
その夜、私は海を見ていた。
風が吹いていた。
遠くに船の灯りが小さく揺れている。
私は考えた。
どこかに行こう。そう思った。
だが私は動けない。
灯台は歩けない。
海を渡ることも、丘を越えることもできない。
それでも、その考えは消えなかった。
どこかに行きたい。
この場所ではない、どこかへ。
そのとき、カモメが一羽とまった。
よく来るやつだ。
「どうした、白い塔」
カモメは首を傾げた。
私は答えられない。
灯台は声を出せないからだ。
けれど、長くここにいる鳥たちは、なんとなく私の気配を読む。
「寂しいのか?」
カモメは言った。
私は海を見た。
遠くの船。
風の匂い。
波の光。
私はずっとここでそれを見てきた。
けれど世界はもっと広いはずだった。
海の向こう。
雲の下。
見たことのない港。
「行きたいのか」
カモメはぽつりと言った。
私は沈黙したままだった。
だがカモメは、くちばしで私の壁を軽く叩いた。
「無理だな」
そう言って笑った。
その通りだ。
灯台は動けない。
どこへも行けない。
それでも、その夜は少し違った。
嵐が来たのだ。
冬の終わりの、ひどく荒い嵐だった。
波は崖を越えるほど高くなり、風は塔を軋ませた。
そして夜の途中で、停電が起きた。
自動装置が止まった。
レンズが止まり、光が消えた。
海は真っ暗になった。
そのときだった。
遠くで船の汽笛が鳴った。
長く、低い音だった。
私は思い出した。
昔の灯台守の声。
「おまえはこの海の目になるんだ」
私は動けない。
けれど、灯りなら出せる。
嵐の衝撃で、古い予備電源が目を覚ました。
もう長く使われていない装置だ。
それでも、私はそれを押し起こした。
光が灯る。
弱いが、確かな光だった。
レンズはゆっくり回り始めた。
海へ向けて、光が伸びる。
暗い嵐の海の中で、それは一本の道のようだった。
汽笛がもう一度鳴った。
今度は少し近かった。
船は光を見つけたのだ。
私はその夜、何度も光を回した。
風が塔を叩いても、光は止めなかった。
それが私の役目だからだ。
夜明けのころ、嵐は去った。
海は静かになり、遠くに船の姿が見えた。
ゆっくりと港へ向かっている。
その船は振り返るように、長く汽笛を鳴らした。
私はその音を聞きながら、ふと思った。
私はどこにも行かなかった。
それでも、私の光は、海を渡った。
船に届き、港に届き、人の帰り道になった。
もしかすると、それが私の旅なのかもしれない。
どこかへ行く方法は、歩くことだけじゃない。
光でもいい。
風でもいい。
誰かに届くなら、それはきっと旅だ。
数日後、人間たちが来た。
「嵐の夜に灯台が点いていたらしい」
「自動装置は止まってたはずだろ」
彼らは首をかしげた。
結局、灯台の廃止は延期された。
古い塔を、もう少しだけ残すことになったらしい。
理由はよくわからない。
だが私はまた夜に光を回している。
海は変わらず広い。
私はまだここにいる。
それでもいい。
光は今夜も遠くへ行く。
私が行けない場所へ、静かに、確かに。
それが灯台にとっての、たったひとつの旅なのだから。




