帰路を忘れた足音 ※ホラー
どこかに行こう。そう思った。
それは、夜の終わりかけのことだった。
部屋の電気は消していた。時計の秒針だけが、やけに大きく響いていた。眠れない夜というのは、音を増幅させる。冷蔵庫のうなり、遠くの車の音、隣室のかすかな気配。
だが、そのどれとも違うものがあった。
足音だ。
廊下を、誰かが歩いている。
規則的な、しかし微妙に間の狂った足音。
コツ、……コツ、コツ、……コツ。
アパートの廊下は古い。床板が軋むたびに、乾いた音がする。だが、その足音は、軋みとは別に、何かを引きずるような重さを含んでいた。
わたしは布団の中で目を閉じたまま、息を潜める。
こんな時間に誰だろう。
いや、考えるまでもない。夜中に廊下を歩く人間は、たいてい普通だ。帰宅が遅くなった住人か、トイレに行く誰か。
そう思いたかった。
だが、音はおかしい。
コツ、……コツ、コツ。
一定ではない。歩幅が揃っていない。片足だけが重いような、奇妙なリズム。
そして、その足音は、止まらない。
わたしの部屋の前を通り過ぎるでもなく、遠ざかるでもなく、ただ廊下を行き来している。
コツ、……コツ、コツ。
コツ、……コツ、コツ。
往復している。
なぜ。
理由はわからない。
だが、わたしの心臓は、その音に合わせて速くなっていく。
やがて、足音が近づいてくる。
ドアの前で、止まった。
音が消える。
静寂。
時計の秒針だけが、再び存在を主張する。
わたしは目を開ける。
暗い天井。
何も見えない。
だが、気配はある。
ドアの向こうに、誰かがいる。
見ている。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
どこかに行こう。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
ここにいたくない。
理由は単純だ。
この部屋は、いま、安全ではない。
わたしは布団から抜け出す。音を立てないように、ゆっくりと。
床に足をつける。
冷たい。
息を殺しながら、玄関へ向かう。
ドアの前に立つ。
向こうに、まだいるだろうか。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
足音は消えている。
それが、逆に恐ろしい。
覗き穴から外を見るべきか。
やめた。
見たら、終わる気がする。
わたしは鍵に手をかける。
外に出る。
逃げる。
どこへ。
考えていない。
ただ、ここから離れたい。
鍵を回す。
カチ。
その音が、やけに大きく響く。
ドアノブを回す。
ゆっくりと、開ける。
廊下には、誰もいない。
蛍光灯が白く光り、古びた壁が並んでいる。
静かだ。
あの足音の主は、いない。
わたしは一歩、外に出る。
そして、後ろ手にドアを閉める。
鍵をかける。
その瞬間。
背後で、足音がした。
コツ、……コツ、コツ。
振り向く。
誰もいない。
だが、音は、確かにある。
廊下の奥から、こちらへ向かってくる。
コツ、……コツ、コツ。
わたしは走る。
階段へ。
エレベーターは使わない。閉じ込められたら終わりだ。
階段を駆け下りる。
一段、二段、三段。
背後で、足音がついてくる。
コツ、……コツ、コツ。
同じリズム。
同じ不規則さ。
振り向かない。
振り向いたら、何かが見える。
見てはいけない。
一階に出る。
外へ。
夜の空気。
冷たい。
だが、生きている感じがする。
わたしは道路へ飛び出す。
街灯が並び、遠くにコンビニの明かりが見える。
そこまで行けば、きっと安全だ。
そう信じて、走る。
だが。
足音は、消えない。
コツ、……コツ、コツ。
外でも、聞こえる。
距離は縮まっている。
背後に、何かがいる。
わたしは息を切らしながら、振り返る。
誰もいない。
だが、音だけがある。
コツ、……コツ、コツ。
見えない足音。
存在しない歩行者。
わたしは立ち止まる。
逃げても、意味がないのではないか。
そのとき、気づく。
音の位置。
背後ではない。
足元だ。
コツ、……コツ、コツ。
わたしの足が、鳴っている。
いや、違う。
わたしの歩き方は、こんなに歪んでいない。
右足。
普通だ。
左足。
重い。
何かが、ついている。
わたしは恐る恐る、足元を見る。
街灯の下、影が伸びている。
その影が。
わたしの足と、もうひとつの足で、歩いている。
わたしは二本足のはずだ。
だが、影は三本だ。
一本、余分にある。
その足が、遅れて動く。
コツ、……コツ、コツ。
わたしの動きに、わずかに遅れて、追いかけてくる。
わたしは息を呑む。
どこかに行こう。そう思った。
だが、どこへ行っても、これがついてくるのではないか。
影は、わたしから離れない。
光がある限り、存在する。
そして、音を立てる。
コツ、……コツ、コツ。
わたしは再び走る。
コンビニの光へ。
明るい場所へ。
人のいる場所へ。
だが、知っている。
光が強くなれば、影は濃くなる。
そして、その足も、はっきりする。
コツ、……コツ、コツ。
足音は、もう逃げ場を与えない。
それは、外から来たのではなかった。
最初から、わたしの中にいたのだ。
ただ、夜になって、聞こえるようになっただけで。
わたしはコンビニの前で立ち止まる。
自動ドアが開く。
明るい店内。
人の声。
安心できるはずの場所。
だが、床に映る影は、三本足のままだ。
コツ、……コツ、コツ。
足音は、消えない。
どこかに行こう。そう思った。
けれど。
どこへ行っても、わたしはわたしから逃げられない。
足音は、帰路を忘れてしまったのだ。
そして、それはもう、わたしのものになっている。




