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青い風船

 どこかに行こう。そう思った。

 思いついたのは朝日が森のてっぺんに触れた瞬間だった。

 まだ世界が眠りから目を覚ます前の、静かで透明な時間。少年は布団の中で背伸びをして、思わず笑った。


 昨日までと違うことは、何もなかった。

 パンの匂いも、庭の木々も、鳴いている鳥も、いつも通りだった。

 ただ、胸の奥に小さな「そろそろ出かけていいよ」という声がしたのだ。


 少年は布団を蹴飛ばし、窓を開けた。

 風が顔に触れて、頬をくすぐる。春の匂いがした。


 靴を履くと、家の前の道に青い風船が一つ、ふわりと浮かんでいた。

 見覚えはない。誰かの忘れ物か、それとも風が運んできたのか、分からない。

 でも、風船はまっすぐ少年の目を見ているようだった。


「一緒に行く?」

 少年が手を伸ばすと、風船は軽く揺れた。


 そうして、二人は森の方へ歩き始めた。

 道は少し曲がりくねっていて、昨日まで気づかなかった草花が咲いている。

 小さな黄色い花、白い小さな葉の花、そして紫の小さなつぼみが、足元で揺れていた。


 森の中に入ると、木々は太陽を遮り、光と影の模様を作っている。

 小鳥たちは、枝の間を飛び回り、時折声をかけてくる。

 少年と青い風船は、それをまるで知っている友だちのように感じた。


 やがて、小さな小川にたどり着いた。水は澄んでいて、石の上を流れる音が心地よい。

 小さな魚が泳ぎ、川の中の光がゆらゆらと踊っている。


「渡る?」

 風船が揺れた。


 少年は石を一つずつ踏みながら川を渡った。

 途中で滑りそうになったが、風船がそっと背中を押してくれた気がした。


 森を抜けると、丘の上に小さな町が見えた。

 赤い屋根、白い壁、花壇には色とりどりの花。子どもたちの笑い声が遠くから聞こえる。


 町の中を歩くと、道端のカフェに猫が座っていた。

 その猫は、近づくと「にゃあ」と言ったような声で挨拶し、しっぽを揺らした。

 少年は猫の周りをくるりと回りながら、通り過ぎる。


 小さな広場に着くと、そこには大きな噴水があった。

 水が高く吹き上がり、太陽の光を受けて虹を作っている。

 子どもたちはその虹の下を駆け回り、笑い声が町に溶けていった。


 少年は青い風船を見上げた。


「ここで遊んでもいい?」


 風船はふわりと空に揺れた。

 きっと、いいよ、という意味だと少年は感じた。


 その日、少年は噴水の周りで、子どもたちと遊んだ。

 鬼ごっこ、かくれんぼ、石投げ、葉っぱの舟流し。

 青い風船はずっと一緒にいて、時々風に乗って空高く舞い上がったり、木の枝の間に隠れたりした。


 お昼を過ぎると、町のパン屋さんから焼きたてのパンの香りが漂ってきた。

 少年は小さな財布からお金を出し、パンを一つ買った。

 店の猫がひょいと近づき、においをかいでいる。


 午後になると、丘の上に戻って、町の全景を見渡した。

 青い風船は太陽に照らされて光り、少年の手に少しだけ引っかかる。

 遠くの森、川、家々、そして空の色。すべてが穏やかで、安心できる世界に思えた。


 夕方になると、森に戻る時間がやってきた。

 少年は青い風船を握り、ゆっくり歩き始めた。

 途中で出会った動物たち、川の魚、森の小鳥たちも、少年を見送るように顔を向けた。


 家に着くと、母と父が庭にいた。


「楽しかった?」

 母が笑った。


「うん。すごく楽しかった」

 少年は青い風船をそっと見た。

 風船はふわりと揺れ、まるで「また行こう」と言っているようだった。


 夜、ベッドに入ると、少年は青い風船を窓辺に置いた。

 窓の外には星が瞬き、風がそっとカーテンを揺らす。


 そして少年は思った。


 どこかに行くことは、特別なことじゃない。

 大切なのは、出かける気持ちと、途中で出会うものを楽しむことだ。


 世界は、思ったよりずっとやさしい。

 誰かと笑ったり、景色を見たり、風に触れたりするだけで、すべてが豊かになる。


 青い風船は、明日もきっと、待っている。

 どこかに行こうとする人のそばで、ふわふわと揺れながら。


 少年は目を閉じ、夢の中でまた森を歩く。

 空気は甘く、日差しは柔らかく、世界はずっと広がっている。

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