戻り時間
どこかに行こう。そう思った。
その瞬間、私は一行、増えた。
私は駅の時刻表だ。
壁に掛けられ、毎日同じ場所で、同じ順番で、同じ数字を人に見せ続けている。私にとって時間は流れるものではなく、並ぶものだ。上から下へ、左から右へ。始発から終電まで。往復、往復、往復。
だが、ときどき。
ほんの、ごくまれに。
私の上に載らない時間が生まれる。
それは「行き」ではない。
「帰り」でもない。
行こうとした、という未完の動きだ。
その人が来たのは、午後三時十二分。
中途半端な時刻だった。学生でも、通勤者でもない顔。切符を買うでもなく、改札を通るでもなく、ただ私を見上げていた。
私は、見られることには慣れている。
だが、読まれることには慣れていない。
多くの人は、自分の乗る電車だけを探す。
だがその人は違った。視線が、上から下まで、すべての行をなぞっていた。まるで、どの時間にも乗れないことを確かめるように。
「どこかに行こう」
声に出したわけではない。
だが私は聞いた。
正確には、**書かれた**。
私の中の、存在しない欄に。
十七時二十分。
行き先:未定。
備考:—。
そんな行が、確かに、増えた。
その人は切符を買った。終点まで。
どの終点かは、どうでもよかったらしい。私に載っているものであれば、どれでもよかった。重要なのは、私の外へ出ることだった。
電車が出るとき、私は少しだけ重くなった。
紙でも、データでもない私が、重くなるというのは異常だ。時間の並びに、重さは必要ない。
だが、増えた行は消えなかった。
私は知っている。
人は「どこかへ行く」と思った時点で、もう半分いなくなっている。残り半分だけが、改札を通り、電車に乗る。
だから私は、戻り時刻を探し始めた。
十七時二十分の下。
十八時。
十九時。
二十時。
戻りの欄が、どこにも埋まらない。
夜になり、駅が静かになっても、その行は残った。終電が近づき、私の一番下の数字が意味を失っても、消えない。
駅員が見回りに来て、私の前を通り過ぎた。
誰も、異変に気づかない。
終電が出た。
私は、本来なら空になるはずの時間帯に、ひとつだけ、行を持っていた。
行き先:未定。
それは、私の役割ではない。
時刻表は、未定を許さない。曖昧なものを載せると、時間は歪む。
その歪みは、少しずつ広がった。
翌朝。
最初の客が私を見たとき、眉をひそめた。
「あれ?」
彼は小さく声を漏らした。
だが次の瞬間、何を見たのか忘れた顔になり、改札へ向かった。
私は理解した。
**戻り時刻のない行は、人の記憶に引っかかる**。
昼。
別の人が、私の前で立ち止まった。
「こんな電車、あったっけ」
彼女は首をかしげた。
その視線は、確かに、あの行を捉えていた。
だが、切符は買わなかった。
行こうとは思わなかった。
代わりに、彼女はスマートフォンを取り出し、誰かにメッセージを打ち始めた。そして、途中で止めた。
「……いいや」
送信されなかった言葉は、私の下に落ちた。
行き先:未定。
人数:二。
増えた。
私は恐ろしくなった。
時刻表は、増えてはいけない。
時間は、人の数だけ存在してはいけない。
それでも、止められなかった。
夕方。
学校帰りの生徒。
会社を辞めたばかりの男。
名前を呼ばれなくなった女。
誰も電車には乗らない。
だが、誰もが一瞬、私を見て、「どこかに行こう」と思う。
そのたびに、行が増える。
私は、戻り時刻を探し続けた。
だが、どの行にも、帰りはなかった。
そして気づいた。
**彼らは行きたいのではない。戻りたくないのだ。**
戻る場所が、もう存在しない人たち。
夜。
駅が閉まる直前、最初のその人が戻ってきた。
顔色が違っていた。
痩せたわけでも、傷ついたわけでもない。
ただ、**時間を落としてきた顔**だった。
彼は私を見上げた。
「ああ……」
安堵の声。
見つけた、という声。
私は、ようやく理解した。
戻り時刻とは、電車ではない。
**戻ろうとする意思**だ。
彼は改札を通らなかった。
駅を出ることもなかった。
ただ、私の前に立ち、静かに言った。
「戻れると思ったんだけどな」
その瞬間。
十七時二十分の行に、文字が浮かんだ。
戻り:なし。
確定した。
私は完成してしまった。
戻りのない時間を、正式に載せてしまった。
彼は笑った。
そして、振り返り、私の奥へ――
ホームの、さらに向こうへ歩いていった。
線路の先ではない。
時間の隙間だ。
翌日、駅はいつも通りだった。
だが私は、もう元には戻れない。
私の一番下には、今もある。
行き先:未定。
戻り:なし。
そして、あなたが私を見上げたとき。
もし一瞬でも、
どこかに行こう、と思ったなら。
その時刻は、もう書かれている。




