↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/55

世界が一枚薄くなる

 どこかに行こう。そう思った。

 その考えは衝動でも決意でもなく、机の上に置き忘れられていた紙切れのように、ふと視界に入ってきただけだった。


 その日、私は仕事を休んだ。体調が悪いわけでも、用事があるわけでもない。休む理由を説明しなければならないほど、私は重要な人間ではなかったし、説明しなくても許される程度には、替えのきく存在だった。


 電話を切ったあと、部屋は急に静かになった。冷蔵庫のモーター音と、遠くの車の走行音だけが、私がまだここにいることを証明している。


 どこかに行こう。

 もう一度、同じ言葉を頭の中で繰り返す。


 どこ、という場所は思い浮かばなかった。ただ、「ここではない」という感覚だけが、やけに鮮明だった。今立っている床が、薄いガラスでできていて、その下に別の景色があるような、そんな感覚。


 着替えをし、財布を持ち、鍵を掴む。鏡に映った自分の顔は、特別な表情をしていなかった。少し眠そうで、少し疲れている、いつもの顔だ。だが、目の奥だけが、微妙に焦点を外していた。


 玄関を出ると、空気が違った。季節のせいかもしれないし、時間帯のせいかもしれない。それでも私は、世界の厚みがほんの少し減っていると感じた。音が遠く、色が淡く、輪郭が曖昧だ。


 駅へ向かう途中、信号待ちで立ち止まる。横断歩道の白線が、妙に長く見えた。一歩踏み出せば、別の場所に出てしまいそうな長さだった。


 電車に乗り、空いている席に座る。行き先は決めなかった。ただ、来た電車に乗った。それだけだ。車内広告の文字が、頭に入ってこない。誰かの会話も、音としてしか聞こえない。


 窓の外を流れる街を見ながら、私は考えた。

 もし、このまま降りなかったらどうなるだろう。

 終点まで行き、さらに折り返し、また終点まで行き、それを繰り返したら。

 私は、いつまで私でいられるのだろう。


 途中の駅で、ふいに降りた。理由はない。降りたくなった、それだけだ。駅名を見ても、聞き覚えはなかった。初めて来た町のはずなのに、不思議と緊張はなかった。


 改札を出ると、小さな商店街があった。シャッターの閉まった店と、開いている店が半々くらい。人通りは少なく、歩いている人も、どこか目的がなさそうだった。


 私は歩いた。

 どこかに行こうと思った以上、立ち止まる理由もなかった。


 角を曲がり、さらに曲がり、いつの間にか住宅街に入っていた。似たような家が並び、似たような植木が置かれている。だが、同じ家は一つもなかった。すべてが微妙に違う。玄関の位置、窓の形、表札の字体。


 その違いが、妙に気になった。

 まるで、誰かが「似ているが同一ではないもの」を必死に並べたような街だ。


 公園があった。ベンチに座る。子どもはいない。遊具はあるが、使われた形跡がない。ブランコは揺れていないのに、金具がきしむ音だけがしていた。


 私は時計を見た。

 針が、少し遅れている。


 気のせいだと思い、もう一度見る。やはり遅れている。正確に言えば、遅れているというより、**今という瞬間に追いついていない**ように見えた。


 立ち上がり、歩き出す。

 足元の感触が、少しだけ柔らかい。アスファルトが、ゴムのように沈む気がする。


 そのとき、声をかけられた。


「初めて?」


 振り返ると、年齢の分からない人が立っていた。若くも見えるし、年老いても見える。服装も、いつの時代のものか判断がつかない。


「何がですか」


「ここに来るの」


 私は一瞬、否定しようとして、やめた。


「たぶん」


 その人は頷いた。


「みんな、そう言う」


「ここは、どこですか」


「さあ」


 答えは曖昧だったが、嘘ではないと感じた。


「帰り方は?」


「来た道を戻ればいい」


「それは、本当に元の場所に戻りますか」


 その人は、少し考える素振りを見せたあと、肩をすくめた。


「戻りたい場所が、同じなら」


 私は、それ以上聞かなかった。

 聞いてはいけない気がした。


 再び歩き出す。

 街は続いていた。終わりがないわけではないが、終わりに近づいている感じもしない。


 ふと、自分の名前を思い出そうとした。

 驚いたことに、すぐには出てこなかった。


 名前は知っている。

 だが、音として思い出せない。

 文字にすれば書ける気がするのに、声にすると抜け落ちる。


 怖くはなかった。

 ただ、少し軽くなった気がした。


 夕方になり、空が暗くなる。街灯が灯るが、光は弱い。影の方が濃い。私は、どこかに行こうと思った自分を思い出す。


 ああ、私はもう「どこか」に来てしまったのだ。


 それでも、不思議と後悔はなかった。

 ここは、私がいなくても困らない場所で、私もまた、ここにいなくても困らない。


 夜。

 私は小さな橋の上に立っていた。下を流れる川は、水なのか影なのか分からない。流れているのは、時間かもしれなかった。


 橋の向こう側は、暗くて見えない。

 だが、向こうに行けば、さらに薄い世界がある気がした。


 戻るなら、今だ。

 そう思った瞬間、足が動かなかった。


 私は理解した。

 どこかに行こうと思うことは、移動ではない。

 **戻れなくなる可能性を、受け入れること**だ。


 私は橋を渡らなかった。

 代わりに、その場に座り込んだ。


 しばらくすると、空が白み始めた。夜明けだ。世界が、少しずつ厚みを取り戻していく。色が濃くなり、音が近づく。


 気づくと、私は最初に降りた駅のベンチに座っていた。

 朝の通勤客が行き交っている。


 時計を見る。

 針は、正常だった。


 私は立ち上がり、改札を通り、帰りの電車に乗った。車内は混んでいて、誰かの肩が触れる。現実的な重さ。


 家に戻り、鍵を開け、玄関に立つ。

 鏡を見ると、そこには確かに私がいた。


 名前も、すぐに思い出せた。


 それでも。

 世界は、完全には元に戻らなかった。


 ときどき、床が薄く感じる。

 ときどき、時間が遅れる。

 ときどき、思う。


 どこかに行こう。


 次にそう思ったとき、私はきっと、もう少し先まで行ってしまうだろう。

 戻れるかどうかは、分からない。


 だが、それでいい気がしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。