世界が一枚薄くなる
どこかに行こう。そう思った。
その考えは衝動でも決意でもなく、机の上に置き忘れられていた紙切れのように、ふと視界に入ってきただけだった。
その日、私は仕事を休んだ。体調が悪いわけでも、用事があるわけでもない。休む理由を説明しなければならないほど、私は重要な人間ではなかったし、説明しなくても許される程度には、替えのきく存在だった。
電話を切ったあと、部屋は急に静かになった。冷蔵庫のモーター音と、遠くの車の走行音だけが、私がまだここにいることを証明している。
どこかに行こう。
もう一度、同じ言葉を頭の中で繰り返す。
どこ、という場所は思い浮かばなかった。ただ、「ここではない」という感覚だけが、やけに鮮明だった。今立っている床が、薄いガラスでできていて、その下に別の景色があるような、そんな感覚。
着替えをし、財布を持ち、鍵を掴む。鏡に映った自分の顔は、特別な表情をしていなかった。少し眠そうで、少し疲れている、いつもの顔だ。だが、目の奥だけが、微妙に焦点を外していた。
玄関を出ると、空気が違った。季節のせいかもしれないし、時間帯のせいかもしれない。それでも私は、世界の厚みがほんの少し減っていると感じた。音が遠く、色が淡く、輪郭が曖昧だ。
駅へ向かう途中、信号待ちで立ち止まる。横断歩道の白線が、妙に長く見えた。一歩踏み出せば、別の場所に出てしまいそうな長さだった。
電車に乗り、空いている席に座る。行き先は決めなかった。ただ、来た電車に乗った。それだけだ。車内広告の文字が、頭に入ってこない。誰かの会話も、音としてしか聞こえない。
窓の外を流れる街を見ながら、私は考えた。
もし、このまま降りなかったらどうなるだろう。
終点まで行き、さらに折り返し、また終点まで行き、それを繰り返したら。
私は、いつまで私でいられるのだろう。
途中の駅で、ふいに降りた。理由はない。降りたくなった、それだけだ。駅名を見ても、聞き覚えはなかった。初めて来た町のはずなのに、不思議と緊張はなかった。
改札を出ると、小さな商店街があった。シャッターの閉まった店と、開いている店が半々くらい。人通りは少なく、歩いている人も、どこか目的がなさそうだった。
私は歩いた。
どこかに行こうと思った以上、立ち止まる理由もなかった。
角を曲がり、さらに曲がり、いつの間にか住宅街に入っていた。似たような家が並び、似たような植木が置かれている。だが、同じ家は一つもなかった。すべてが微妙に違う。玄関の位置、窓の形、表札の字体。
その違いが、妙に気になった。
まるで、誰かが「似ているが同一ではないもの」を必死に並べたような街だ。
公園があった。ベンチに座る。子どもはいない。遊具はあるが、使われた形跡がない。ブランコは揺れていないのに、金具がきしむ音だけがしていた。
私は時計を見た。
針が、少し遅れている。
気のせいだと思い、もう一度見る。やはり遅れている。正確に言えば、遅れているというより、**今という瞬間に追いついていない**ように見えた。
立ち上がり、歩き出す。
足元の感触が、少しだけ柔らかい。アスファルトが、ゴムのように沈む気がする。
そのとき、声をかけられた。
「初めて?」
振り返ると、年齢の分からない人が立っていた。若くも見えるし、年老いても見える。服装も、いつの時代のものか判断がつかない。
「何がですか」
「ここに来るの」
私は一瞬、否定しようとして、やめた。
「たぶん」
その人は頷いた。
「みんな、そう言う」
「ここは、どこですか」
「さあ」
答えは曖昧だったが、嘘ではないと感じた。
「帰り方は?」
「来た道を戻ればいい」
「それは、本当に元の場所に戻りますか」
その人は、少し考える素振りを見せたあと、肩をすくめた。
「戻りたい場所が、同じなら」
私は、それ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
再び歩き出す。
街は続いていた。終わりがないわけではないが、終わりに近づいている感じもしない。
ふと、自分の名前を思い出そうとした。
驚いたことに、すぐには出てこなかった。
名前は知っている。
だが、音として思い出せない。
文字にすれば書ける気がするのに、声にすると抜け落ちる。
怖くはなかった。
ただ、少し軽くなった気がした。
夕方になり、空が暗くなる。街灯が灯るが、光は弱い。影の方が濃い。私は、どこかに行こうと思った自分を思い出す。
ああ、私はもう「どこか」に来てしまったのだ。
それでも、不思議と後悔はなかった。
ここは、私がいなくても困らない場所で、私もまた、ここにいなくても困らない。
夜。
私は小さな橋の上に立っていた。下を流れる川は、水なのか影なのか分からない。流れているのは、時間かもしれなかった。
橋の向こう側は、暗くて見えない。
だが、向こうに行けば、さらに薄い世界がある気がした。
戻るなら、今だ。
そう思った瞬間、足が動かなかった。
私は理解した。
どこかに行こうと思うことは、移動ではない。
**戻れなくなる可能性を、受け入れること**だ。
私は橋を渡らなかった。
代わりに、その場に座り込んだ。
しばらくすると、空が白み始めた。夜明けだ。世界が、少しずつ厚みを取り戻していく。色が濃くなり、音が近づく。
気づくと、私は最初に降りた駅のベンチに座っていた。
朝の通勤客が行き交っている。
時計を見る。
針は、正常だった。
私は立ち上がり、改札を通り、帰りの電車に乗った。車内は混んでいて、誰かの肩が触れる。現実的な重さ。
家に戻り、鍵を開け、玄関に立つ。
鏡を見ると、そこには確かに私がいた。
名前も、すぐに思い出せた。
それでも。
世界は、完全には元に戻らなかった。
ときどき、床が薄く感じる。
ときどき、時間が遅れる。
ときどき、思う。
どこかに行こう。
次にそう思ったとき、私はきっと、もう少し先まで行ってしまうだろう。
戻れるかどうかは、分からない。
だが、それでいい気がしている。




