夜行電車は夢を見る
どこかに行こう。そう思った。
もっとも、私がそう思ったところで、勝手にどこかへ行けるわけではない。私は電車だからだ。しかも、夜行列車。決められた線路の上を、決められた時刻に走る。それが私の役目だった。
昼のあいだ、私は車庫で眠っている。巨大な鉄の身体を静かに休め、夜が来るのを待つ。整備員が点検をし、車掌が歩き回り、やがて空が暗くなる。
夜が来ると、私は目を覚ます。
パンタグラフが上がり、電気が流れ、車体の奥でモーターが小さく唸る。その振動が全身に広がるとき、私は「今日も走るのだ」と実感する。
駅へ向かう。
ホームには、いつもいろいろな人がいる。大きな鞄を持つ者、静かな顔をした者、誰かを見送る者。彼らは皆、それぞれの理由で夜を旅する。
私はそれを運ぶ。
夢も、疲れも、秘密も、全部まとめて。
私の名前は、特別なものではない。車体番号があるだけだ。けれど昔は愛称があったらしい。星の名前だとか、遠い町の名前だとか。
だが時代が変わり、高速の新しい列車が走るようになると、夜行列車は少しずつ減っていった。
速い列車は昼のうちに目的地へ着く。
夜に走る必要は、あまりなくなった。
それでも私は残った。
古い路線を、静かに走り続けていた。
夜の線路は、昼とは違う。
町の灯りが遠くに流れ、田んぼの闇が窓の外に広がる。トンネルに入ると、私は自分の音だけを聞くことになる。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
それは、私の鼓動のようなものだった。
ある夜、私は駅でひとりの少年を乗せた。
小さなリュックを背負った少年だった。席に座るとすぐ窓に顔を近づけ、外の暗闇をじっと見ていた。
彼はあまり動かなかった。
眠りもしなかった。
ただ、時々窓に映る自分の顔を見ていた。
私は人の考えを読むことはできない。けれど、長く走っていると、なんとなく気配はわかる。
この少年は、どこかへ行こうとしている。
それだけは、はっきりしていた。
深夜になり、車内は静かになった。
ほとんどの乗客が眠っている。
毛布の擦れる音。
かすかな寝息。
私は線路を走りながら、ふと思った。
どこかに行こう。
だが、私は線路の外へ出られない。
分岐も限られている。
この路線は、海沿いの町から山の町へ向かい、そしてまた別の海へ出る。それだけだ。
それでも、夜のあいだ私は遠くへ行く。
山を越え、川を渡り、何十もの駅を通り過ぎる。
けれどそれは、どこかへ行くこととは少し違う気がしていた。
決められた場所を、繰り返し走るだけ。
それは旅なのだろうか。
そのとき、線路が小さく笑った。
「またその考えか」
線路は古い友達だ。
ずっと下で私を支えている。
「どこかへ行きたいんだろう」
私は答えない。
答えなくても、線路は知っている。
「おまえは十分遠くへ行ってる」
線路は言う。
「町から町へ。人を乗せて」
「でも、それは私の行きたい場所じゃない」
心の奥で、私はそう思った。
線路は少し黙った。
「人間も同じだ」
やがて、ぽつりと言った。
「彼らも決められた線の上を走ってる」
私は少し驚いた。
「それでも、彼らはときどき違う場所へ行く」
「好き勝手に行ってる人だけじゃないさ」
「でも……」
そのとき、私は思い出した。
さっきの少年。
彼はまだ起きていた。
窓の外の闇を見つめている。
列車は大きな川の橋に差しかかった。
月が出ていて、水面が銀色に光っている。
少年は小さくつぶやいた。
「きれいだ」
誰に言ったわけでもない。
ただ、ぽつりと。
その声は、とても軽かった。
私はその瞬間、少しだけ誇らしかった。
この景色を見せたのは、私だからだ。
夜明けが近づく。
東の空がわずかに青くなり、遠くの山の輪郭が浮かび上がる。
列車は終点の町へ入った。
ブレーキがかかり、ゆっくり止まる。
ドアが開き、人々が降りていく。
少年も降りた。
ホームに立ち、私を振り返った。
それから、少しだけ手を振った。
誰にでもなく。
たぶん、私に。
やがてホームは静かになり、私は車庫へ戻る。
昼の眠りの前に、私は考える。
私はどこかへ行けるだろうか。
線路の外へ。
見たことのない町へ。
答えはまだわからない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
夜になると、また人が乗る。
遠くへ行く人。
帰る人。
逃げる人。
探す人。
私はそれを運ぶ。
夢ごと。
秘密ごと。
夜のあいだ、線路の上を走りながら。
もしかすると、それが私の旅なのかもしれない。
私はどこへも行かない。
それでも、私の中で、誰かがどこかへ行く。
それでいいのだと思う。
夜が来る。
パンタグラフが上がり、電気が流れる。
モーターが目を覚ます。
私はゆっくり動き出す。
どこかに行こう。
そう思いながら。




