くつひもの地図
どこかに行こう。そう思った。
そう思ったのは、古い運動ぐつの、左足のくつひもだった。
そのくつは、町のはずれの小さな家の玄関に置かれていた。くつ箱のいちばん下の段。そこは少し暗くて、少しほこりっぽくて、そしてとても静かな場所だった。
昔はそうではなかった。
このくつは、毎日のように外へ出ていた。朝の道を走り、学校の校庭を歩き、川の橋を渡り、公園の土の上で思いきり跳ねた。
雨の日には水たまりを踏み、晴れの日には影を追いかけた。
そのたびに、くつひもはきゅっと結ばれて、いろんな景色を見てきた。
けれど今は、もうずっと動いていない。
くつの持ち主の男の子は、ずっと背が伸びてしまったのだ。新しいくつを履くようになり、この古いくつは、玄関の隅に置かれたままになった。
それでも、くつひもは覚えている。
道のにおい。草の感触。風の音。
ある晩、玄関の小さな窓から、月の光が差し込んだ。
光は床をなでて、くつの上までやってくる。
くつひもは、そっとつぶやいた。
「どこかに行こう」
右足のくつひもが、少しだけ揺れた。
「いきなりどうしたの」
「だってさ」
左足のくつひもは言った。
「ぼくたち、ずっとここにいる」
「まあね」
「でも、昔はいろんなところへ行った」
右足のくつひもは少し黙った。
「それは、あの子が履いてくれたからだよ」
「うん」
「くつひもだけでは、歩けない」
それは、ほんとうのことだった。
くつひもは、くつについている。
くつは、誰かが履かなければ歩けない。
しばらく、静かな時間が流れた。
そのときだった。
玄関のすきまから、すーっと風が入ってきた。
春の風だった。
やわらかくて、あたたかい風。
風は、くつひもをくすぐる。
「こんばんは」
風は言った。
「こんばんは」
左足のくつひもは答えた。
「さっき、どこかに行きたいって言ってたね」
風はくすくす笑った。
どうして聞こえたのだろう。
でも風というものは、たいていのことを知っている。
「うん」
くつひもは言った。
「行きたい」
「それなら、少し手伝おうか」
風はふわりと舞った。
くつの中に入り、くつひもを揺らす。
すると、くつがほんの少し動いた。
きゅっ。
くつひもが鳴る。
「動いた!」
左足のくつひもは驚いた。
「もう一回」
風が言う。
ふわり。
くつがまた少し動く。
床の上を、ほんの少しだけすべる。
右足のくつひもが言った。
「これ、進んでる?」
「進んでる」
左足のくつひもはうれしくなった。
風はくすくす笑う。
「でもね、もっといい方法があるよ」
「どんな?」
「結び方を変えてみよう」
風はくつひもをくるくる動かした。
すると、いつものリボン結びとは違う形になった。
それは、少し変わった結び方だった。
まるで、小さな矢印みたいだった。
「これはね」
風は言った。
「地図の結び方」
「地図?」
「うん。結び方で、進む方向が決まるんだ」
左足のくつひもはわくわくした。
「ほんと?」
「ほんと」
風がもう一度吹く。
すると、くつがすーっと動いた。
玄関のドアのほうへ。
きゅっ。
きゅっ。
くつひもが揺れる。
やがて、ドアの下のすきまにたどりついた。
外の空気が入ってくる。
夜のにおい。
草のにおい。
遠くで犬が吠える声。
風が言う。
「いくよ」
ふわり。
ドアが少しだけ開いた。
くつは、そのすきまをするりと抜けた。
外だ。
月が空に浮かんでいる。
道が静かに続いている。
「外だ……」
くつひもは言った。
それだけで、胸がいっぱいになった。
くつはゆっくりと進む。
風が吹くたびに、少しずつ。
石の道をこえ、草の道をこえ、小さな坂を下る。
途中で、小さな声が聞こえた。
「だれかいる?」
見ると、道ばたに、片方だけの手ぶくろが落ちていた。
赤い毛糸の手ぶくろだ。
「どうしたの?」
くつひもが聞く。
「ぼく、落ちちゃったんだ」
手ぶくろは言った。
「もう片方は、きっと家に帰ってる」
くつひもは少し考えた。
そして言った。
「ぼくたち、旅の途中なんだ」
「旅?」
「うん。でも、帰り道も探してる」
風が、くつひもを揺らした。
結び目の矢印が、森の方を向く。
「こっちだ」
くつは進む。
森の道を抜け、小さな橋を渡る。
やがて、遠くに家の灯りが見えた。
その家の前で、小さな子が泣いていた。
手には、もう片方の手ぶくろ。
「見つけた!」
子どもは言った。
赤い手ぶくろを拾い上げる。
「ありがとう」
子どもは言ったが、くつひもには聞こえない。
でも、なんだかあたたかい気持ちになった。
風がそっと吹く。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
くつひもは言った。
どこかに行こう。
そう思った。
そして、本当に行くことができた。
遠くへではない。
けれど、誰かの道の途中へ。
風が最後にふわりと吹く。
くつは、また玄関の前に戻っていた。
朝になれば、きっと誰かが気づくだろう。
くつひもは、少しだけ形を変えて結ばれていた。
矢印の形の、地図の結び方で。




