安全な世界
どこかに行こう。そう思った。
その思考が浮かんだ瞬間、彼の脳内で微弱な電気信号が走り、同時に、世界のどこかで小さなフラグが立った。
本人は気づかない。
人は、自分の中に生まれた考えが、外部と共有されているとは想定しない。
彼は平凡な市民だった。職業は事務、趣味は特になし。休日は疲労回復に使い、平日は疲労を蓄積する。社会的に見て、理想的な構成要素の一つだった。
朝のニュースは明るい話題を選んで流していた。犯罪率は低下し、失業率は安定し、将来への不安は「適切なレベル」に管理されている。キャスターは穏やかな声で言う。
「本日も、平和な一日になりそうです」
彼はその言葉を聞きながら、シャツのボタンを留め、ふと考えた。
どこかに行こうかな。
今度は、思考が少し長く続いた。
〇・六秒。
フラグは、黄色に変わった。
会社へ向かう途中、街は整然としていた。ゴミは落ちておらず、人々はルールを守り、無駄に立ち止まらない。掲示板には、標語が貼られている。
《今いる場所が、あなたの場所です》
彼はそれを見て、なぜか息苦しさを覚えた。
理由は分からない。ただ、胸の奥に小さな違和感が残った。
昼休み、同僚が言った。
「最近、街が静かすぎないか」
「そうかな」
「いや、前はもっと……文句とか、愚痴とか、あった気がする」
彼は曖昧に笑った。
文句や愚痴は、確かに減った。減ったが、それを不便だと思う人間も、もうあまりいない。
午後、彼はミスをした。
小さなミスだった。修正は簡単で、誰も責めない。
だが、その瞬間、彼は思ってしまった。
このままでいいのだろうか。
危険度の高い思考だった。
フラグが赤に近づく。
帰宅後、彼の端末に通知が届いた。
《生活満足度チェックのお願い》
定期的なものだ。
誰もが答える。
・現在の生活に満足していますか
・今の場所に不満はありますか
・移動を希望しますか
彼は正直に答えた。
満足しているとは言い切れない。
不満があるかは分からない。
移動――少しだけ、考えたことがある。
送信すると、すぐに返事が来た。
《ありがとうございます
あなたは、丁寧なサポート対象です》
その夜、彼はよく眠れなかった。
夢の中で、ドアがいくつも並んでいた。どれも鍵がかかっていないが、どれも開ける必要がない気がした。
翌朝、訪問者が来た。
制服を着た男女二人。表情は柔らかい。
「生活支援センターです」
「何か問題でも」
「いえ。むしろ逆です」
彼らは、彼を責めなかった。
叱らなかった。
ただ、丁寧に説明した。
「最近、少しお疲れのようです」
「そうかもしれません」
「無理に今の場所にいる必要はありません」
「……それは」
「どこかに行く、という選択もあります」
彼の心臓が、少し早く打った。
「行った先は?」
「不安のない場所です」
「戻れますか」
「戻りたいと思えば」
その言い方に、引っかかりを覚えたが、彼は深く考えなかった。考えること自体が、少し疲れる。
施設は、白く、清潔だった。
待合室には人がいたが、皆、落ち着いている。
「緊張していませんか」
「いいえ」
それは本当だった。
恐怖はない。疑問も、薄れている。
説明は簡潔だった。
ここでは、不要な負荷を軽減する。
社会の安定を保つ。
個人の苦痛を最小限にする。
「処理、という言葉を使う人もいますが」
担当者は笑った。
「実際は、移動です」
装置は静かだった。
音も光も、意味を持たない程度。
「最後に、何か言い残すことは?」
彼は考えた。
だが、特に思い浮かばない。
どこかに行こう。
ただ、それだけだったのだから。
装置が起動し、彼は消えた。
記録上は、《移動完了》。
その後、世界は変わらなかった。
街は静かで、犯罪は少なく、人々は適度に満足している。
ニュースは今日も言う。
「私たちの社会は、安全で、自由です」
統計はそれを裏付ける。
不満指数は低く、危険思想の発生率も年々減少している。
どこかに行こうと思う人間は、確実に減っていた。
それでも、ごく稀に現れる。
理由のない違和感を覚える者。
今いる場所に疑問を持つ者。
そういう人間のために、制度は用意されている。
世界は、とてもよくできている。
なぜなら。
この世界で「どこかに行こう」と思う存在は、人間ではなく、まだ人間になりきれていない欠陥個体だからだ。




