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月をあずかるポケット

 どこかに行こう。そう思った。


 そう思ったのは、町はずれの古い上着のポケットだった。


 上着は木の椅子にかけられている。もう何年も、同じ場所に。窓のそばで、季節の光を受けながら、ずっと静かにしていた。


 上着の持ち主は、おじいさんだった。昔は毎日のようにこの上着を着て外へ出かけていたが、ここ数年はめっきり出歩かなくなった。


 それでも、上着はそこにあった。


 そしてポケットもまた、そこにあった。


 ポケットというものは、ふしぎな場所だ。


 入れられるものは、さまざまだ。石ころ、どんぐり、古い切符、小さなメモ、ボタン、キャンディの包み紙。


 ポケットは、そういうものたちを受け止める場所だった。


 でも、最近はずっと空っぽだった。


 空っぽのポケットは、静かだ。


 とても静かだ。


 ある夜、窓の外から月の光が差し込んだ。


 やわらかな光が、上着のしわをなぞり、ポケットの中まで届く。


 そのとき、ポケットはふと思った。


 どこかに行こう。


 昔は、いろんなところに行った。


 森の道。川の橋。坂の上のパン屋。海まで行ったこともあった。


 ポケットは覚えている。


 砂の感触。木の実の匂い。切符の紙のかさかさした手ざわり。


 でも、今はもう、動かない。


 椅子の上で、ただ月の光を受けているだけだ。


「どうしたの?」


 声がした。


 見ると、ポケットの中に、小さな光が落ちていた。


 それは月の光だった。


「君、さびしそうだね」


 光は言った。


 ポケットは少し照れくさくなった。


「うん、ちょっとね」


「昔は、旅をしていたんだろう?」


「どうしてわかるの?」


「光はね、いろんなところを見ているから」


 月の光はやさしく揺れた。


「どこかに行きたい?」


「うん」


 ポケットは言った。


「でも、ぼくは上着についているから」


「それなら」


 光はくすっと笑った。


「少しだけ、ぼくが手伝うよ」


 光は、ポケットの奥へするりと入り込んだ。


 すると、ポケットの中が、ふわりと明るくなる。


 まるで、小さな月が入ったみたいだった。


「これは?」


 ポケットが聞く。


「月のかけらだよ」


「かけら?」


「ほんの少しだけ、旅ができるようになる」


 そのとき、窓から夜風が入ってきた。


 上着が、ふわりと揺れる。


 椅子の背から、すこしだけ滑った。


 そして――


 ぽとん。


 上着が床に落ちた。


「わっ!」


 ポケットは驚いた。


 でも、割れたりはしない。


 ただ、少しだけ場所が変わっただけだ。


 夜風がもう一度吹く。


 上着のすそが、ゆっくりと床をすべる。


 ずる、ずる。


 ほんの少しずつ、窓のほうへ動く。


「動いてる……」


 ポケットはどきどきした。


 窓は半分開いていた。


 夜の空気が、部屋の中に流れ込む。


 上着は、ゆっくりと窓の下まで来た。


 風がもう一度吹く。


 ふわり。


 上着が窓の外へ落ちた。


 草の上に、やわらかく着地する。


「外だ!」


 ポケットは思わず言った。


 夜の匂い。


 土の香り。


 遠くで虫が鳴いている。


 月が空に浮かんでいる。


 ポケットは、はじめて気づいた。


 自分の中に、小さな月が光っていることに。


 その光が、道を照らしていた。


 風が吹く。


 上着が少しだけ動く。


 草の上を、すべるように進む。


 ポケットは笑った。


「ほんとうに旅だ」


 しばらくすると、小さな音が聞こえた。


 くすん。


 くすん。


 草むらの中で、何かが泣いている。


 上着が近づく。


 そこには、小さな子ぎつねがいた。


「どうしたの?」


 ポケットが聞く。


 子ぎつねは言った。


「帰り道がわからないんだ」


 ポケットは少し考えた。


 そして言った。


「ぼくの中、見て」


 ポケットの中の月のかけらが、やさしく光る。


 その光は、森の奥を指していた。


「あっ」


 子ぎつねが顔を上げる。


「こっちだ」


 子ぎつねは光の方向へ走っていく。


 しばらくして、森の中から、きつねたちの声が聞こえた。


 どうやら家族のもとへ戻れたらしい。


「よかった」


 ポケットはほっとした。


 月のかけらは、まだ光っている。


 風がまた吹いた。


 上着がゆっくり動く。


 丘の上へ。


 川のそばへ。


 町の灯りの見える場所へ。


 ポケットは思う。


 どこかに行こう。


 それは遠くでなくてもいい。


 誰かが迷ったとき、少しだけ光る場所へ。


 月のかけらをあずかるポケットは、その夜、小さな旅を続けていた。


 そして朝になるころ、上着はまた、いつのまにか家の窓のそばに戻っていた。


 椅子の背にかけられたまま。


 けれど、ポケットの中には、まだほんのりと月の光が残っていた。


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