風をあつめる小さなびん
どこかに行こう。そう思った。
それは、丘の上の小さな家の棚に置かれていた、ひとつのびんだった。
びんは透明で、丸くて、ふたがついている。もともとはジャムが入っていたびんだが、ジャムはもうずっと前に食べられてしまった。
それからというもの、びんはずっと棚の上に置かれていた。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。
窓の外の景色は何度も変わったが、びんは一度も動いたことがなかった。
棚の上には、ほかにもいろいろなものがあった。
赤いボタン、青いビー玉、古い鍵、それから小さな木のこま。
どれも、いつか誰かが「あとで使おう」と思って置いたものたちだ。
「ねえ、びん」
ある日、ビー玉がころころと転がりながら言った。
「外ってどんなところだと思う?」
びんは、少し考えた。
外は、窓から見えるだけだ。
丘があり、風があり、雲が流れている。
「きっと、広いんだろうね」
びんは言った。
ビー玉は楽しそうにくるくる回った。
「ぼく、転がってみたいなあ」
びんは少しうらやましく思った。
ビー玉は転がれる。
こまは回れる。
ボタンはころころ転がれる。
でも、びんは、ただそこに置かれているだけだ。
その夜。
月の光が窓から差し込み、棚の上をやさしく照らした。
びんはふと考えた。
どこかに行こう。
そう思った。
理由はよくわからない。
ただ、棚の上から見える景色の向こうへ行ってみたかった。
そのときだった。
ふわり、と風が入ってきた。
窓が少しだけ開いていたのだ。
風は棚の上をなでる。
ボタンがころりと転がり、ビー玉が少し動いた。
そして、びんのふたが、こつん、と鳴った。
「こんにちは」
声がした。
びんはびっくりした。
「だれ?」
「ぼくだよ、風」
風はくすくす笑う。
「君の中、空っぽだね」
「うん」
びんは少し恥ずかしくなった。
「ジャムが入ってたんだけど、もうないんだ」
「それはいいね」
風は言った。
「空っぽのびんは、とてもいい」
「どうして?」
「いろんなものが入るからさ」
びんは少し考えた。
「ぼく、どこかに行きたいんだ」
すると風は、楽しそうにくるくる回った。
「じゃあ、ぼくが手伝うよ」
風はびんの中に、ふわりと入り込んだ。
びんの中で、やさしく渦を巻く。
「まずは、風をあつめよう」
「風を?」
「うん。いっぱいあつめると、びんは軽くなるんだ」
びんは驚いた。
風が入ると、なんだか体がふわふわする。
そのまま、もう一度風が吹いた。
ふわり。
びんが、ほんの少しだけ動いた。
「動いた!」
びんはうれしくなった。
「もう一回」
風は言った。
びんの中でくるくる回る。
すると。
ころん。
びんは棚の上を少し転がった。
「すごい!」
ビー玉が言った。
「びんが転がった!」
びんはわくわくした。
もう一度、風が入る。
ころん。
また少し進む。
そしてついに、棚の端に来た。
「落ちるよ!」
ボタンが叫んだ。
びんは少し怖くなった。
「だいじょうぶ」
風がささやく。
「ぼくがいる」
びんは勇気を出した。
そして。
ころん。
棚から落ちた。
だが、割れなかった。
びんの中の風が、ふわりと支えてくれたのだ。
「外へ行こう」
風が言う。
びんはころころ転がる。
床を越え、ドアの隙間を抜け、ついに外へ出た。
丘の上の夜は、とても静かだった。
星がたくさん光っている。
「きれい……」
びんは言った。
今まで窓から見ていた景色の中に、自分がいる。
それがとても不思議だった。
風はびんの中で、やさしく鳴る。
ころころころ。
びんは丘を転がる。
草の間を通り、石をよけ、少しずつ進む。
やがて、小さな池にたどり着いた。
水面に月が映っている。
びんはそっと近づいた。
すると、池のほとりで、何かが光っている。
小さな光だ。
それは、迷子のほたるだった。
「どうしたの?」
びんが聞く。
ほたるは弱々しく光った。
「帰り道がわからないんだ」
びんは少し考えた。
そして言った。
「ぼくの中に入る?」
ほたるは、びんの中にふわりと入った。
すると、びんの中がやさしく光る。
「わあ……」
びんはうれしくなった。
風と、光。
びんの中には、もう空っぽではないものが入っている。
「ありがとう」
ほたるが言った。
びんは言う。
「どこへ行こうか」
風が笑う。
「どこでも行けるよ」
びんは丘の上をころころ転がる。
森へ。
川へ。
星の見える場所へ。
どこかに行こう。
そう思った。
そしてびんは、風をあつめながら、夜の丘を転がっていった。
中には、やさしい光を灯しながら。




