夜行列車の窓 ※ホラー要素有
どこかに行こう。そう思った。
それは、夜の駅だった。
人の少ない地方の終着駅。終電はとっくに出てしまい、駅舎の明かりも半分ほど落とされている。残っているのは、ホームを照らす白い蛍光灯と、時刻表の上でかすかに震える蛾くらいのものだ。
わたしは、ベンチに座っていた。
名前は言わない。ここでは、たぶん必要ない。
ただ、どこかへ行きたかった。それだけだ。
理由があるわけではない。むしろ、理由がないことの方が大きかった。
仕事を辞めたばかりだった。人間関係が悪かったわけでもない。給料が特別低かったわけでもない。ただ、ある朝、目が覚めたときに思ったのだ。
「もう、いいか」と。
それから数日、家の中でぼんやり過ごした。テレビもつけず、スマートフォンもほとんど見ない。
そして夜、ふと思った。
どこかに行こう。
そうして、電車に乗り、ここまで来た。
だが、終電だった。
行き止まりの駅に着いたとき、車掌は言った。
「この電車は回送になりますので、降りてください」
わたしは降りた。
そして、今もここにいる。
夜風がホームを抜ける。遠くの山の匂いがする。
時計を見る。午前一時。
始発までは、まだ四時間以上ある。
そのときだった。
線路の向こうから、音が聞こえた。
かすかな、レールの震え。
最初は風だと思った。だが違う。
これは、列車の音だ。
わたしは立ち上がる。
だが、おかしい。
この駅に、こんな時間に列車は来ないはずだ。
時刻表を見る。
何もない。
それでも音は近づいてくる。
カタン。
カタン。
やがて、暗闇の向こうに灯りが見えた。
列車だ。
古い型の、銀色の車両。
ヘッドライトがホームを照らし、ゆっくりと減速していく。
わたしは呆然と見ていた。
列車は、音もなく停まった。
ドアが開く。
プシュー。
中は暗い。
車内灯がついていない。
だが、誰かがいる気配がした。
人影が、座席にいくつも並んでいる。
顔は見えない。
ただ、静かに座っている。
不思議と怖くはなかった。
むしろ、妙な安心感があった。
どこかに行ける。
その予感だけが、強く胸に残った。
わたしは、列車に乗った。
ドアが閉まる。
列車はすぐに動き出した。
窓の外は、真っ暗だった。
駅の灯りもすぐに消え、ただ闇が流れていく。
車内には十人ほどの乗客がいた。
全員、静かだ。
話す者もいない。
眠っているようにも見える。
だが、よく見ると、誰も動かない。
呼吸の気配もない。
わたしは席に座る。
すると、向かいに座っていた男が、ゆっくり顔を上げた。
年齢はわからない。
暗くて、顔がはっきりしない。
だが、目だけが妙に白く見えた。
「どこまで行く」
男はそう言った。
声は小さいが、はっきり聞こえる。
わたしは答える。
「わからない」
男は少し笑った。
「みんなそうだ」
「みんな?」
「ここに乗るやつはな」
そのとき、車内放送が流れた。
古いスピーカーの音。
ざらざらしたノイズの中で、女性の声がする。
『次は……』
そこで声が途切れる。
数秒の沈黙。
そして、再び流れる。
『次は……戻れない駅』
わたしは眉をひそめる。
聞き間違いだろうか。
だが、男はうなずいた。
「そうだ」
「何がですか」
「戻れない」
列車は速度を上げている。
窓の外の闇が、どんどん流れる。
ふと、違和感に気づいた。
反対側の窓。
そこには、景色が映っていない。
代わりに。
わたしの部屋が映っていた。
あの、狭いアパートの部屋。
散らかった机。
カーテンの閉まった窓。
そして、ベッド。
ベッドの上には、誰かが横たわっている。
わたしは目を凝らす。
それは、わたしだった。
顔が青白い。
目は閉じている。
動かない。
男が言った。
「見えたか」
「……あれは」
「置いてきたんだ」
「何を」
「体を」
わたしは立ち上がる。
「そんなはずは」
窓に手をつく。
ガラスは冷たい。
部屋の中の「わたし」は、ぴくりとも動かない。
呼吸していない。
男が続ける。
「ときどきいる」
「……」
「どこかに行きたいってやつ」
列車は、トンネルに入った。
窓が真っ暗になる。
そして、トンネルを抜けた。
外には、駅があった。
古いホーム。
看板には、文字が書かれている。
だが、読めない。
線がぐにゃぐにゃと歪み、意味を持たない形になっている。
列車が停まる。
ドアが開く。
誰も降りない。
誰も乗らない。
放送が流れる。
『戻れない駅です』
わたしは男を見る。
「降りると、どうなるんですか」
男は肩をすくめた。
「知らない」
「……」
「でも、次に進めば」
「進めば?」
「もう、戻れない」
ドアが閉まり始める。
プシュー。
わたしは立ったまま、動けない。
どこかに行こう。
そう思った。
その願いは、叶った。
だが、どこなのかは、まだわからない。
列車が動き出す。
窓の外の駅が遠ざかる。
ふと、ホームの端に、人影が見えた。
こちらを見ている。
よく見ると、それは。
わたしだった。
青白い顔で、静かに立っている。
列車の中のわたしを、じっと見つめている。
やがて駅は闇に消えた。
車内は静かだ。
誰も話さない。
ただ、レールの音だけが続く。
カタン。
カタン。
どこかに行こう。
そう思った。
その願いを、この列車は、確かに聞き届けたのだった。




