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書庫の果てで眠るもの

 どこかに行こう。そう思った。


 もっとも、私のような存在にとって、それはかなり無理のある願いだった。

 私は本だからだ。

 革の表紙を持ち、重たい紙の束を抱えた、古い一冊の本である。


 私は図書館の三階、東側の書庫の棚に置かれている。

 棚番号はE―17。人の手があまり届かない場所だ。

 長い年月、私はそこに収まったまま、静かに時間を過ごしてきた。


 本というものは、基本的に動かない。


 動くときは、人間に開かれ、めくられ、読まれるときだけだ。

 ページがめくられる瞬間、私はほんの少し世界へ触れることができる。

 だがそれも束の間で、やがて閉じられ、また棚へ戻される。


 それが本の一生である。


 もっとも、私の場合は少し事情が違う。

 私は、あまり読まれない本だった。


 私の題名は『北方航路の記録』。

 今から百年以上前に書かれた、古い航海記だ。

 氷の海を進んだ船の記録、見知らぬ島の報告、風向きや潮の流れの細かな観察――そんな文章がびっしりと並んでいる。


 昔は、何人もの人が私を開いた。


 探検家を志す若者。

 地理学者。

 船乗り。


 彼らはページをめくりながら、遠い海を想像した。

 私はそのたび、紙の奥で小さく誇らしかった。

 自分の中にある言葉が、誰かの旅を少しだけ広げているのだと思えたからだ。


 だが、時代は変わる。


 地図は精密になり、衛星が海を見下ろすようになり、航路はすべてデータになった。

 古い航海記は、研究者以外にはほとんど用がない。


 そうして私は、書庫の奥へ移された。


 それから何十年も経つ。


 誰も私を開かない日が続いた。

 ページは静かに眠り、紙の匂いだけが少しずつ深くなっていく。


 夜になると、図書館は暗くなる。

 人の足音が消え、蛍光灯が落ちる。


 その時間になると、書庫の中では小さな会話が始まる。


「今日は誰か読まれたか」


 隣の棚の百科事典が低い声で言う。


「三ページだけ」


 辞書が答える。


「新しい学生だった。意味を調べただけだ」


 本たちは、人間のいない夜だけ、こうして話す。


 私はあまり口を出さない。

 長く読まれていない本は、どうしても話題が少ないからだ。


 それでも、ある夜、私はぽつりと言った。


「どこかに行こう」


 すると棚の上の詩集がくすりと笑った。


「本が?」


「そう」


「無理だよ」


 百科事典が重たい声で言う。


「我々は棚から動けない」


「読まれれば動く」


 詩集が言う。


「誰かの頭の中へ」


 それは、たしかに本当だった。

 本は、人間の想像の中へ入ることができる。


 だが私は、長いこと誰にも読まれていない。


「私は海を見たことがない」


 私は言った。


 自分のページには海の記述がいくらでもある。

 氷の海、霧の海、鯨が泳ぐ海。


 だが、それは言葉だ。

 私は本当の海を知らない。


 その夜、書庫はしばらく静かだった。


 やがて、ずっと下の棚にいる小さな児童書が言った。


「だったら、読まれればいい」


「簡単に言う」


 百科事典が苦笑する。


「ここは書庫だ。人はあまり来ない」


「でも、ゼロじゃない」


 児童書は言う。


「待てばいい」


 待つ。


 本にとって、それは得意なことだ。


 私たちは何十年でも待つ。

 紙はゆっくりしか老いないからだ。


 それから、さらに数年が過ぎた。


 ある雨の日、久しぶりに書庫の扉が開いた。


 若い女性が入ってきた。

 腕にメモ帳を抱えている。


 彼女は棚をゆっくり歩き、背表紙を見ていった。


「北方航路……」


 彼女が小さく呟いた。


 そして、私を引き抜いた。


 久しぶりの光だった。


 机に運ばれ、表紙が開かれる。

 ページがめくられる。


 私は息をのむような気持ちだった。


 文字が読まれる。

 言葉が誰かの目を通り、頭の中へ入っていく。


 それは本にとって、旅の始まりだ。


 女性は真剣な顔で読んでいた。


 ときどきペンでメモを取り、ページを戻し、また読み直す。


 やがて彼女は、小さく言った。


「この航海、面白い」


 私は胸の奥で震えた。


 それから彼女は、さらに言った。


「いつか、この海に行ってみたいな」


 その瞬間、私は理解した。


 本は動けない。

 けれど、言葉は動く。


 ページに閉じ込められた航海は、人の心へ移り、そこから現実へ出ていく。


 もし彼女が本当に海へ行ったなら。


 もし氷の海を見たなら。


 その旅のほんの一部に、私は含まれている。


 それはつまり、私も海へ行ったことになるのではないか。


 彼女は本を閉じた。


 しばらく表紙を見つめ、それから司書の机へ向かった。


「これ、借ります」


 その言葉を聞いたとき、私は少しだけ誇らしかった。


 久しぶりの外出だ。


 図書館の外の世界へ。


 本は歩けない。

 だが、人に運ばれることはできる。


 バッグの中で揺れながら、私は思った。


 どこかに行こう。


 その願いは、どうやら少しだけ叶ったらしい。


 窓の外で、雨が降っている。


 その向こうには海がある。

 ページに書いた、あの遠い北の海が。


 いつか本当にそこへ届くかもしれない。


 私の言葉が、誰かの旅の中で。

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