風を継ぐ者
どこかに行こう。そう思った。
それは朝露の重みで、ほんのわずかに枝がしなった瞬間だった。
ぼくは葉の裏で羽を休めながら、世界を見下ろしていた。
ぼくは一匹のトンボだ。
名前はない。トンボの世界では名前はあまり意味がないからだ。風向きと水の匂い、それがだいたいの挨拶みたいなものだった。
けれどその朝、胸の奥に妙なざわめきがあった。
ここは静かな沼だ。
夏のあいだ、ぼくはずっとこの場所で生きてきた。水面には睡蓮が浮かび、カエルが跳ね、夕方になると蚊の群れが立ち上る。トンボにとっては悪くない場所だった。
それでも、空は広すぎた。
高く、遠く、どこまでも続いている。
そしてぼくは、その下に小さく貼りついているだけだった。
――どこかに行こう。
理由はうまく言えない。ただ、風がそう囁いた気がした。
ぼくは枝を離れた。
羽を震わせると、透明な四枚の翅が朝の光を弾いた。
沼の上を一周する。
水面の匂い、泥の温度、いつもの景色。
ここを離れる必要なんて、どこにもない。
でも、胸の奥のざわめきは消えなかった。
カエルが言った。
「どこへ行くんだい」
ぼくは答えた。
「わからない」
「わからないのに飛ぶのか」
「たぶん」
カエルは大きな目をぱちぱちさせ、それから肩をすくめた。
「空の連中は変わってる」
そう言って、また水に潜った。
ぼくは笑った。
トンボは笑うとき、ただ少し羽ばたきが軽くなるだけだ。
そして、沼の縁を越えた。
そこから先は、あまり知らない世界だった。
草原があり、風に揺れる稲があり、人間たちの作った長い灰色の道があった。道の上を、金属の大きな虫のようなものが轟音を立てて走っていく。
ぼくは少し高く飛んだ。
風は強かった。
でも、悪くない。
川が見えた。
曲がりくねって、遠くまで続いている。
川の上には仲間がいた。
赤いトンボたちだ。
「どこから来た?」
一匹が尋ねた。
「沼」
「どこへ行く?」
「まだ決めてない」
赤トンボはくるりと宙返りして笑った。
「それはいい」
「いいの?」
「うん。だって決めてしまったら、そこまでしか飛べない」
その言葉は、妙に胸に残った。
ぼくは川を越えた。
町を越えた。
屋根の並びの上を飛び、電線の隙間を抜け、洗濯物の揺れる庭の上をかすめた。人間たちは、ぼくたちにほとんど気づかない。
世界は、ぼくの知らない匂いで満ちていた。
パンの匂い。
油の匂い。
遠くの海の匂い。
そう、海だ。
午後になって、風が変わった。
湿った、広い匂い。
ぼくはさらに高く飛んだ。
やがて、視界がぱっと開けた。
そこには水があった。
果てしない水。
沼なんて、比べものにならない。
川とも違う。
水平線というものを、ぼくはそのとき初めて見た。
ぼくはしばらく飛ぶのを忘れて、風に流された。
世界はこんなに広かったのか。
そのとき、横を白い影が横切った。
カモメだった。
「迷子か?」
低い声で言った。
「たぶん違う」
ぼくは答えた。
「じゃあ旅人だな」
「旅人?」
「どこかに行こうとしてるやつは、だいたいそう呼ばれる」
カモメはゆっくり旋回しながら続けた。
「でも気をつけろ。空は広いが、時間は長くない」
ぼくは黙った。
それは、ぼくも知っていることだった。
トンボの一生は、驚くほど短い。
羽を持つ時間なんて、ほんの少しだ。
「それでも飛ぶのか?」
カモメは聞いた。
ぼくは海を見た。
風が吹いていた。
波が光っていた。
ぼくは言った。
「うん」
カモメは少し笑った。
「いい答えだ」
それから、遠くへ飛んでいった。
夕方になった。
空は橙色に染まり、海はゆっくり暗くなっていく。
ぼくは浜辺の枯れ枝に止まった。
羽は少し疲れていたが、胸のざわめきはまだ消えていない。
むしろ、少しだけ大きくなっていた。
たぶん、ぼくはまた飛ぶ。
沼には戻らないかもしれない。
戻るかもしれない。
それでもいい。
世界は広く、風はどこへでも続いている。
ぼくには名前はない。
地図もない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
ぼくは今日、沼の外を見た。
それだけで、この短い羽の時間は、もう少し遠くまで届く気がした。
夜の風が吹く。
星が一つ、海の上に灯った。
ぼくは羽を軽く震わせる。
そして、また空へ上がった。




