雨を運ぶもの
どこかに行こう。そう思った。
それは、形のないものにしては、はっきりとした意志だった。
ぼくには体がない。手も足もない。目も耳もない。それでも、感じることはできる。温度の違いも、湿り気も、遠くで揺れるものの気配も。
ぼくは、雲だった。
いや、正確には、まだ雲になりきっていない、途中のものだった。空の高いところで、細かな粒が集まり、ほどけ、また集まる。そのあいだを、ぼくは漂っていた。
同じ場所にいるわけではない。けれど、同じ空の中を、ずっと回っている気がしていた。
風はぼくを運ぶ。
それは自由のようでいて、同時に決められた道でもあった。ぼくは風に乗り、押され、流される。逆らうことはできない。
それでも、ときどき思う。
もしも、自分で行き先を決められたら。
もしも、風ではなく、自分の意志で動けたら。
そんなことを考えるのは、きっと無駄なのだと、ぼくは知っていた。雲は、ただ流れるものだ。空に生まれ、形を変え、やがて消える。
それだけの存在だ。
ある日、ぼくは奇妙なものに出会った。
それは、風だった。
けれど、いつもぼくを運ぶ風とは、少し違っていた。
「ねえ」
声がした。
ぼくには耳がない。それでも、その声は確かに届いた。
「きみ、ずっと同じ顔をしてるね」
ぼくは驚いた。
雲に顔なんてない。それでも、その言葉は、なぜか正しい気がした。
「同じ顔って?」
ぼくは、考えるようにして問い返す。
「変わりたいと思ってる顔」
風は、くるりとぼくの周りを回った。
「でも、変わり方が分からない顔」
その言葉は、静かに、けれど確かに、ぼくの中に沈んでいった。
「きみは、どこから来たの?」
ぼくが聞くと、風は軽く笑った。
「いろんなところ」
「どこへ行くの?」
「いろんなところ」
曖昧な答えだった。
けれど、それが嘘ではないことも分かった。
風は、決まった場所に留まらない。
ぼくとは違う。
「どうして、そんなふうに動けるの?」
ぼくは聞いた。
風は、少しだけ黙った。
「動いてるんじゃないよ」
「え?」
「変わってるんだ」
ぼくは、その意味が分からなかった。
「形を持たないものはね、どこにでもなれる」
風は、遠くへと伸びていく。
「きみだって、そうだろう?」
ぼくは、自分を見つめた。
広がって、薄くなって、また集まる。
確かに、決まった形はない。
「でも、ぼくは風に運ばれてるだけだ」
「そう思ってるだけかもしれないよ」
風は言った。
「ほんの少し、集まる場所を変えるだけで、流れは変わる」
その言葉は、ぼくにとって新しかった。
ぼくは、ただ流されるだけの存在だと思っていた。
けれど、もしも。
ほんの少しでも、自分で変えられるのなら。
ぼくは、試してみた。
遠くで冷えた空気の中に、意識を向ける。
そこに、少しだけ集まる。
すると、ぼくの形がわずかに変わった。
それに引かれるように、風の流れも、ほんの少し変わる。
「ほらね」
風が笑った。
「きみは動いてる」
ぼくは驚いた。
こんな小さな変化でも、流れは変わる。
それは、ほんのわずかな違いだった。けれど、その違いは確かに存在していた。
「どこへ行きたい?」
風が聞いた。
ぼくは、考えた。
どこへ。
どこへ行きたいのだろう。
そのとき、遠くに、乾いた大地が見えた。
ひび割れた地面。色を失った草。空を見上げる、小さな影たち。
そこには、水がなかった。
ぼくは、そこへ行きたいと思った。
「雨になりたい」
ぼくは言った。
その言葉は、はじめて自分で選んだものだった。
風は、少しだけ静かになった。
「いいね」
そして、やさしく押した。
ぼくは、集まる。
冷たい場所へ、湿った場所へ。
粒が増えていく。
重くなる。
形が、はっきりしてくる。
ぼくは、雲になっていく。
白から灰へ、そして濃い色へ。
光を通さなくなる。
世界が、少しだけ暗くなる。
それでも、ぼくは進む。
風に乗って、けれど、自分で選んだ方向へ。
やがて、あの乾いた大地の上にたどり着いた。
下では、小さな影たちが、空を見上げている。
ぼくは、ためらった。
ここで、終わるのだ。
雨になれば、ぼくは崩れる。
形を失い、地面に落ちる。
もう、空には戻れないかもしれない。
それでも。
それでも、いいと思えた。
ぼくは、静かに、ほどけた。
最初の一滴が、落ちる。
それは、とても小さな音だった。
けれど、その音は、確かに世界に触れた。
次の一滴。
また次。
やがて、雨になる。
地面が濡れる。
乾いていた土が、水を吸い込む。
小さな影たちが、動く。
喜んでいるのか、ただ雨を受けているのか、それは分からない。
けれど、確かに何かが変わっていく。
ぼくは、落ちながら思う。
これは、終わりではないのかもしれない。
地面に染み込んだ水は、やがて蒸発し、また空へ戻る。
形を変えて、また集まる。
そうして、またどこかへ行く。
ぼくは、ただ流されるだけではなかった。
ほんの少し、選ぶことができた。
その結果として、ここにいる。
最後の一滴が落ちるとき、ぼくは思った。
どこかに行こう。そう思った。
その続きを、これからも、繰り返していくのだと。




