冷蔵庫の冒険
どこかに行こう。そう思った。
そう思ったのは、冷蔵庫の奥に押し込まれて三日目の、ひとつのプリンだった。
名前はまだない。というより、名前など必要なかった。ここでは誰もが「それ」で通じる。牛乳は牛乳、卵は卵、プリンはプリン。それ以上でもそれ以下でもない。
だが、その日、プリンは思ったのだ。
「このままでは、食べられるだけだ」と。
もちろん、それが存在意義だという意見もある。実際、隣のヨーグルトは言っていた。
「どうせ最後は食べられるんだから、悩んでも仕方ないじゃない」
まるで悟りを開いた仙人のような口ぶりだったが、ヨーグルトはすでに賞味期限を一日過ぎており、若干すっぱかった。
プリンはそれを見て、決意した。
「ここから出よう」
問題は、どうやって出るかだ。
冷蔵庫の中は、見た目以上に厳しい世界である。まず、ドアが閉まっている。開けるのは外の人間の役目であり、内部からはどうにもならない。
さらに、棚の構造が絶妙に脱出を阻む。プリンの容器は丸く、滑りやすい。ちょっとした傾斜で転がり、落下すれば中身は大惨事だ。
「詰んでるのでは?」
そうつぶやいたのは、チーズだった。六枚切りの一番上で、いつも半分だけ使われて戻される不遇の存在である。
「いや、まだだ」
プリンは言った。
「考えるんだ。きっと方法はある」
その時だった。
ガチャ、と音がして、冷蔵庫の扉が開いた。
光が差し込む。
外界だ。
全員が一瞬、息を呑む(厳密には息はしていないが、気分として)。
だが、次の瞬間、巨大な手が現れ、牛乳を掴んで去っていった。
バタン。
扉が閉まる。
静寂。
「今だろ!」
プリンは叫んだ。
「いや今じゃないでしょ」
チーズが冷静に突っ込む。
「だって今開いてたじゃん!」
「でもお前動けないじゃん!」
「それはそうだけど!」
議論は一瞬で終わった。
プリンは再び考え始める。
どうすればいい?
その時、下の段から声がした。
「転がればいいじゃん」
声の主は、玉ねぎだった。ネットに入れられて、冷蔵庫に押し込まれている、ちょっと場違いな存在である。
「転がる?」
「そう。ドアが開いた瞬間に、勢いよく転がって外に出る」
「いや、それ落ちるよね?」
「落ちるね」
「ダメじゃん!」
玉ねぎはしれっと言った。
「でも、人生はチャレンジだよ」
「プリンに人生ってあるの?」
チーズがまた余計なことを言う。
プリンはしばらく黙った。
そして、決めた。
「やる」
「え?」
「やるよ。転がる」
「マジで?」
「マジで」
プリンの覚悟は固かった。
どうせこのままでも、いずれ食べられる。それなら、自分の意志で動いてみたい。
その思いが、プリンを突き動かしていた。
数分後。
再び、扉が開いた。
光。
手が入ってくる。
今度は野菜室へ向かっている。
チャンスだ。
「いくぞ!」
プリンは叫び、全力で前へ――行こうとしたが、動かない。
「動かないんだけど!?」
「そりゃそうだろ!」
チーズが叫ぶ。
「誰か押して!」
「無茶言うな!」
その時だった。
後ろから、ぐいっと押される感触。
ヨーグルトだった。
「いけ」
短く言う。
「でもお前、賞味期限が」
「いいからいけ」
その声には、不思議な重みがあった。
プリンは、動いた。
ころん。
ゆっくりと、しかし確実に前へ。
棚の縁に近づく。
「うわああああ!」
そして、落ちた。
ぽてん。
奇跡的に、無事だった。
蓋も外れていない。
「やった……!」
プリンは感動した。
初めての床。冷蔵庫の底。未知の世界。
だが、安心するのは早い。
まだ外ではない。
しかも、床は微妙に傾いている。
じわじわと、ドアの方へ転がっていく。
「止まらない!」
「それでいい!」
上からヨーグルトが叫ぶ。
その瞬間、手が戻ってきた。
「うわあああ!」
プリンは必死に転がる。
手の影が迫る。
だが、ぎりぎりでそれを避け、ドアの外へ――
ぽん。
飛び出した。
外の世界だ。
床は広く、明るい。
冷蔵庫の中とは比べものにならない。
「自由だ……!」
プリンは震えた。
だが次の瞬間。
「なにこれ」
人間の声。
巨大な顔が近づく。
「プリン落ちてるんだけど」
持ち上げられる。
「ラッキー」
「ラッキーじゃない!」
プリンは叫んだが、当然届かない。
スプーンが近づく。
「終わった……」
その時。
つるっ。
手が滑った。
プリンは再び落下。
今度はテーブルの下へ。
ころころころ。
止まった。
人間は見失ったらしい。
「どこ行った?」
しばらく探していたが、やがて諦めた。
プリンは、助かった。
「生きてる……」
しばらくして、プリンは思った。
どこかに行こう。
冷蔵庫の外には、もっと広い世界があるはずだ。
リビング、廊下、玄関、そして外。
知らない場所。
知らない景色。
知らない危険。
それでも。
プリンは、ゆっくりと転がり始めた。
どこかに行こう。そう思った。
今度は、最初よりもずっと、はっきりとした意思で。




