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順に処理される

 どこかに行こう。そう思った。

 その思考は、彼の頭の中でわずか〇・三秒ほど存在し、その後、正式に記録された。


 彼自身は、そのことを知らない。

 人間は、自分の思考がどこに保存されているかを、基本的に知らされていないからだ。


 朝だった。目覚ましが鳴り、彼はいつも通りそれを止め、いつも通り天井を見上げた。天井の小さな染みの形が、今日は少しだけ違って見えた。それが「どこかに行こう」という思考の引き金だった可能性はあるが、統計的には誤差の範囲である。


 彼は会社員だった。

 特別な能力はなく、特別な欠点もない。管理上、非常に扱いやすい人間だった。


 会社へ行く準備をしながら、彼はもう一度考えた。


 どこかに行こう。


 今度は〇・五秒。

 記録レベルが一段階上がった。


 だが、彼の生活には何の変化も起きなかった。電車は時間通りに来て、乗客は無表情で、広告は無意味な希望を売っている。世界は、彼がどこかに行こうと思った程度では揺るがない。


 ただ一つ、違う点があった。


 彼の個人評価ランクが、**A−372からB−12へ**と変更されていた。


 もちろん、本人は知らない。


 昼休み、彼は同僚と定食屋に入った。メニューを見ながら、また考えてしまう。


「このままでいいのかな」


 これは危険な思考だった。

 だが、危険度は低い。誰でも一日に数回は考える。


 問題は、その直後だった。


「どこかに行こうかな」


 再度、明確な方向性を持った。


 これで合計三回。

 処理対象として、十分な回数である。


 同僚は天気の話をしていた。

 彼は曖昧に相槌を打ちながら、味のしないご飯を口に運んだ。


 その日の夕方、彼のもとに通知が届いた。


《おめでとうございます

 あなたは選ばれました》


 詐欺だと思った。

 最近はそういうメールが多い。


 だが、差出人は《公共移動管理局》となっている。聞いたことがあるような、ないような名前だ。


《あなたは「移動希望者」に分類されました

 つきましては、以下の手続きにご協力ください》


 リンクを押すと、簡単な質問が表示された。


・本当にどこかに行きたいですか

・いつから考えていましたか

・戻る可能性はありますか


 彼は、正直に答えた。

 どこかに行きたい。

 今日から。

 戻るかどうかは分からない。


 送信すると、すぐに返事が来た。


《確認しました

 処理予定日は明日です》


「処理?」


 声に出した瞬間、部屋の照明が一瞬だけ暗くなった。

 これは偶然だ。

 少なくとも、公式には。


 翌朝、彼の部屋に人が来た。

 正確には、人に近い形をした職員だった。


「公共移動管理局です」


「引っ越しの勧誘なら――」


「いえ、あなた自身の移動です」


 職員は淡々としていた。

 感情がないわけではないが、必要ない場面では使わない訓練を受けている。


「どこへ?」


「どこかへ」


 その答えに、彼は少し安心した。

 分からないなら、決めなくていい。


「拒否権は?」


「あります」


「行使すると?」


「通常生活に戻れます」


「じゃあ――」


「ただし」


 職員はタブレットを見せた。


「拒否後、同様の思考を再度行った場合、強制処理になります」


「思考?」


「『どこかに行こう』という類のものです」


 彼は黙った。

 思考をやめる自信はなかった。


「多くの方は、処理を選びます」


「処理されると、どうなるんですか」


「社会的負荷が軽減されます」


「私が消える?」


「移動します」


 言い換えだ。

 彼はそれに気づいたが、指摘しなかった。


 手続きは簡単だった。

 荷物は不要。身分証も不要。彼自身が、対象物だからだ。


 車に乗せられ、施設に運ばれた。

 窓の外には、同じような建物が並んでいる。


「ここには、どれくらいの人が?」


「常時数万人です」


「多いですね」


「年々増えています。皆、どこかに行きたがる」


 施設の中は、驚くほど普通だった。

 待合室があり、椅子があり、番号が呼ばれる。


《番号三四五六番》


 彼の番号だった。


 部屋に入ると、装置が一つ置いてあった。

 大きさは冷蔵庫くらい。


「これで、移動します」


「どこへ」


「どこでもありません」


 彼は、なぜか笑ってしまった。


「私みたいな人間が、たくさん?」


「はい」


「行った先は、どうなってるんですか」


「データが少なくて」


「戻ってきた人は?」


「いません」


「失敗例は?」


「ありません」


 それはつまり、成功と失敗の区別がないということだった。


「最後に、何か質問は?」


 彼は考えた。

 そして、思った。


 どこかに行こう。


 その瞬間、職員の端末が鳴った。


「あ、今のは追加カウントになります」


「え?」


「危険思考が確定しました。即時処理です」


「待ってください、まだ――」


 装置が起動した。

 音はしない。光も弱い。


 彼は、急にどうでもよくなった。

 どこでもいい。

 どこかなら。


 次の瞬間、彼はいなくなった。


 記録上は、《移動完了》。


 その日の夕方、彼の席は空いた。

 会社は特に困らなかった。

 翌週には、新しい人員が補充された。


 世界は今日も回っている。


 どこかに行こうと思う人間が、次々と処理されながら。


 公共移動管理局の統計によれば、

 最も危険な思考は「このままでいいのか」であり、

 最も処理率が高いのは「どこかに行こう」である。


 だから今日も、誰かが思う。


 どこかに行こう。


 そして、世界は少しだけ軽くなる。

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