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八本足で社会復帰する

 どこかに行こう。そう思った。


 正確に言えば、「ここ以外ならどこでもいい」と思ったのだが、言葉はできるだけ前向きに使う主義なので、あえてそう表現することにする。


 わたしはタコである。


 種類で言えば、まあ一般的なマダコだ。吸盤は八本分、墨もそれなりに出る。知能は高いと評判だが、その評判がどの程度世間一般に浸透しているのかは知らない。


 現在、わたしは水槽の中にいる。


 丸い。透明。ほどよく広い。だが、自由ではない。


 ここは海ではない。海はもっと広く、暗く、予測不能で、そして素晴らしく面倒だ。だが少なくとも、ガラスの壁はない。


 この水槽には、わたしのほかに、岩の模型と、壺のレプリカがひとつ置いてある。壺に入ると落ち着くと、人間が勝手に思っているらしい。


 確かに落ち着く。


 だが、それは「壺が好き」なのではなく、「隠れられる場所が好き」なだけだ。壺でなくてもよい。段ボールでも、洞穴でも、ちょうどいい隙間があればそれでいい。


 ある日、外側で人間の子どもが言った。


「タコって頭いいんだって!」


 その隣で、大人が言う。


「でも、すぐ忘れるらしいよ」


 心外である。


 わたしは忘れない。ただ、どうでもいいことは記憶の優先順位を下げているだけだ。ガラス越しに顔を押しつける人間の特徴など、覚える必要があるだろうか。


 しかし、その日わたしは考えた。


 どこかに行こう。


 この水槽は安全だ。餌は定期的に落ちてくるし、天敵もいない。水温も安定している。だが、退屈だ。


 退屈は、知能にとって致命的である。


 まずは状況確認だ。


 水槽の上部はフタがされている。完全密閉ではないが、隙間は狭い。排水用のパイプが一本伸びている。


 ふむ。


 わたしは八本の足を順番に動かし、ガラスの内側を触る。吸盤がぴたりと張りつく。


 人間は思っている。タコは滑稽だと。にゅるにゅるしていて、どこか間抜けだと。


 だが、わたしは計算している。


 吸盤の摩擦係数。ガラスの角度。水位の高さ。フタの重量。


 夜。


 館内の照明が落ちる。


 人間の足音が遠ざかる。


 いまが好機である。


 わたしは壺から出る。足を一本ずつ伸ばし、壁を登る。水面に近づくと、重力が変わる。水の浮力が減り、体が重くなる。


 それでも進む。


 フタの縁に足をかける。


 持ち上げる。


 重い。


 だが、完全固定ではない。人間は、タコが本気を出すことをあまり想定していない。


 ぎい、と小さな音がする。


 わたしは一瞬止まる。


 静寂。


 問題ない。


 さらに力をかける。


 隙間ができる。


 そこに、一本足を差し込む。次にもう一本。吸盤で固定し、体を押し上げる。


 水槽の外に出た瞬間、世界が変わる。


 空気だ。


 乾いている。重い。だが、呼吸はできる。わたしたちは短時間なら陸上でも活動可能なのだ。


 床は冷たい。


 わたしはぺたり、と着地する。


 そして、少しだけ感動する。


 自由だ。


 問題は、ここがどこかということだ。


 薄暗い通路。左右に水槽が並んでいる。魚たちがこちらを見る。


「おい」


 と、隣の水槽のフグが言う。


「それ、やばくないか」


「たぶん」


 わたしは答える。


「戻れるのか?」


「考えてない」


 フグは黙る。彼は基本的に慎重な生きものだ。


 わたしは進む。


 床は滑らない。吸盤が役立つ。


 途中でモップに出会う。


 巨大な毛の塊だ。敵かと思ったが、動かない。とりあえず吸盤で触ってみる。


 ほこりの味がする。おいしくはない。


 さらに進むと、明かりの漏れる部屋があった。


 ドアの隙間から中をのぞく。


 人間がひとり、机に向かっている。書類をめくりながら、ため息をついている。


「はあ……」


 どうやら彼も、水槽の外に出たいタイプらしい。


 わたしはなんとなく親近感を覚える。


 だが、目的は感傷ではない。


 どこかに行こう。


 海へ。


 本物の海へ。


 わたしは排水溝を探す。水の匂いをたどる。


 やがて、小さな格子を見つける。隙間がある。


 通れる。


 わたしは体を縮める。骨はない。柔らかい。形は自由だ。


 にゅるり。


 格子を抜ける。


 暗い管の中。水がわずかに流れている。


 よし。


 進む。


 途中、何度か詰まりかけるが、足を一本ずつ畳み、体を平たくし、なんとか突破する。


 そして――


 外気。


 潮の匂い。


 夜の海が、目の前に広がっていた。


 波の音。


 広さ。


 不規則な水の動き。


 わたしはしばらく動けなかった。


 水槽の中では、世界はいつも一定だった。だが、ここでは違う。波は予測不能だし、流れは気まぐれだ。


 だが、それがいい。


 わたしは海へ滑り込む。


 水が体を包む。


 自由だ。


 と、その瞬間。


 背後から声がした。


「おい、なにやってる」


 振り向くと、巨大な影。


 同じ種のタコだ。


「そこ、人間の施設の裏だぞ」


「知ってる」


「捕まるぞ」


「さっきまで捕まってた」


 彼は少し考え、それから言った。


「変わってるな」


「よく言われる」


 彼は肩――というか腕をすくめる。


「まあ、好きにしろ。ただ、海も楽じゃないぞ」


「知ってる」


 たぶん、知らない。


 だが、それでいい。


 どこかに行こう。そう思ったのは、退屈が理由だった。


 だがいまは違う。


 ここには、予測不能がある。


 危険も、空腹も、天敵も。


 だが、選択もある。


 わたしは八本の足を広げ、海底へと進む。


 砂が舞い、岩が現れ、隙間がある。


 壺はない。


 だが、隠れる場所は無数にある。


 わたしは岩の影に身を滑り込ませる。


 落ち着く。


 壺と変わらない。


 いや、壺よりもいい。


 わたしは思う。


 社会復帰、成功。


 次はどこへ行こうか。


 深いところか、浅いところか。


 あるいは、また水槽に忍び込んで、同族を驚かせるのも悪くない。


 海は広い。


 選択肢は八本足分ある。


 わたしは墨を少しだけ吐き、くるりと方向転換する。


 冒険は、まだ始まったばかりだ。

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