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時速ゼロの大冒険

 どこかに行こう。そう思った。


 雨あがりのアスファルトの上で、わたしは殻の中に半分ほど引っ込みながら、真剣にそう考えていた。


 わたしはカタツムリである。


 名前はない。というより、名乗る機会がない。だいたいの場合、「あ、カタツムリだ」で済まされる。わたしたちのアイデンティティは、種族名に吸収されがちだ。


 しかし今日のわたしは、ただのカタツムリではない。


 冒険を志すカタツムリである。


 きっかけは単純だ。さきほど、近所の花壇に住むナメクジが言ったのだ。


「塀の向こうには、でっかい庭があるらしいぜ」


 塀の向こう。


 それは、わたしの世界の果てである。高さ三十センチほどのコンクリートの壁。人間にとっては跨げる段差でも、わたしにとっては絶壁だ。


「庭ってなんだ」


「知らねえ。でも芝生ってやつがあるらしい」


「芝生?」


「なんか、やわらかいらしい」


 やわらかい。


 その言葉は、わたしの心を撃ち抜いた。


 アスファルトは固い。乾くと最悪だ。ざらざらしていて、粘液の消費量が激しい。燃費が悪い。


 それに比べ、やわらかい地面。しかも広い庭。夢のようではないか。


 わたしはその場で決意した。


 どこかに行こう。


 できれば、芝生のあるところへ。


 問題は、速度である。


 わたしの移動速度は、体感的には「まあまあ」だが、客観的に見ると「ほぼ止まっている」に等しい。過去にミミズから「お前、動いてる?」と真顔で聞かれたことがある。


 動いている。とても頑張っている。


 まずは塀まで行かねばならない。


 距離にして、およそ五メートル。


 わたしにとっては、ほぼ大陸横断である。


 出発は夜がいい。日中は乾く。命に関わる。


 その夜、わたしは意を決して殻からぐいと体を出した。


「ほんとに行くのか」


 ナメクジが言う。


「行く」


「塀、高いぞ」


「知ってる」


「途中で朝になるぞ」


「考えないようにしてる」


 ナメクジはしばらく黙ってから、言った。


「まあ、がんばれよ。俺はここで待ってる」


 彼は基本、待っている生きものだ。


 わたしは前進を開始する。


 にゅるり。


 粘液を出し、腹足を波打たせ、じわじわと進む。


 アスファルトの感触が腹に伝わる。細かな砂粒が、時折ちくりと刺す。


 だが、心は前向きだ。


 芝生。やわらかい地面。未知の世界。


 五分後。


 振り返ると、出発地点がまだ見える。


 いや、むしろほぼ同じ場所にいるように見える。


「焦るな」


 わたしは自分に言い聞かせる。


 カタツムリの冒険は、時間の感覚を変えるところから始まるのだ。


 一時間後。


 アリに追い抜かれた。


「お先ー」


 彼らは集団で、軽やかに通り過ぎていく。


「急いでるのか」


 わたしは聞く。


「仕事中」


 即答だった。アリは常に仕事中だ。


 わたしは少しだけ落ち込むが、気を取り直す。


 目的は速さではない。到達だ。


 やがて、前方に巨大な影が現れる。


 塀だ。


 見上げる。


 高い。


 近くで見ると、想像以上に高い。表面はざらつき、ところどころに小さな凹凸がある。


 登れなくはないかもしれない。


 わたしは塀に張りつく。


 ひんやりしている。悪くない。


 ゆっくりと、上を目指す。


 にゅる。


 にゅる。


 少しずつ、確実に。


 途中、クモに出会った。


「どこ行くの」


「向こう側」


「落ちるよ」


「落ちないようにする」


 クモはしばらくわたしを観察し、やがて興味を失ったらしく去っていった。


 半分ほど登ったところで、問題が発生する。


 乾いてきた。


 夜明けが近い。


 空気が、ほんのりと軽くなっている。


 まずい。


 わたしは粘液の出力を上げる。燃費がさらに悪化する。


「いける」


 自分に言い聞かせる。


 芝生が待っている。


 なんとか、塀のてっぺんに到達した。


 達成感で、しばし動けない。


 下を見る。


 高い。


 いや、実際はそれほどでもないのだろうが、わたしにとっては雲の上だ。


 そして、向こう側を見る。


 そこには――


 緑。


 一面の芝生が、朝の光を受けて広がっている。


 美しい。


 やわらかそうだ。


 わたしは感動のあまり、少し殻に引っ込む。


「来た」


 小さくつぶやく。


 しかし問題は、ここからだ。


 どうやって降りるか。


 登るより降りるほうが怖い。


 だが、行くしかない。


 わたしは、慎重に、慎重に、下り始める。


 途中、バランスを崩しかける。


「わっ」


 殻が傾く。


 だが、なんとか持ちこたえる。


 そして――


 無事、芝生に到着した。


 ふわ。


 腹が、やわらかい感触に包まれる。


 これは。


 最高だ。


 アスファルトとはまるで違う。優しい。しっとりしている。粘液の消費も少ない。エコだ。


 わたしは芝生の上を、ゆっくりと進む。


 にゅるり。


 なんという快適さ。


「おい」


 声がした。


 見上げると、巨大な影。


 イヌだ。


「なんだこれ」


 鼻先が近づいてくる。


「新種か?」


 やめてほしい。新種ではない。一般的だ。


 イヌはくんくんと匂いをかぎ、やがて興味を失ったのか、どこかへ走り去った。


 風が吹く。


 芝生が揺れる。


 わたしは思う。


 来てよかった。


 速くはない。派手でもない。誰にも気づかれないかもしれない。


 それでも、わたしは塀を越えた。


 どこかに行こう。そう思ったあの瞬間から、世界は少し広がったのだ。


 わたしは芝生の上で立ち止まる。


 いや、正確には、ほとんど止まっている。


 だが、心は確かに進んでいる。


 さて。


 次はあの花壇を目指してみるか。


 見たところ、土がふかふかそうだ。


 わたしは再び、にゅるりと前進する。


 時速ゼロに近い大冒険は、まだ始まったばかりだ。

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