ペンギン、空を目指す
どこかに行こう。そう思った。
それもできれば、南極以外のどこかに。
わたしはコウテイペンギンである。名前はまだない。なぜなら群れの中では、だいたい「おい」とか「そこの」とか「転ぶな」とかで済むからだ。個性より耐寒性が重視される社会において、名前は贅沢品である。
南極は寒い。
いや、正確には「いつも寒い」。寒さにもいろいろあるが、ここは常に全力投球だ。手加減という言葉を知らない風が吹き、地面は凍り、海は凍り、わたしたちの思考回路まで凍らせようとする。
「寒い」
思わずつぶやいた。
「当たり前だろ」
隣の個体が即答する。こういうとき、彼らはだいたい正論を言う。南極で寒いと言うのは、海で濡れると言うようなものだ。
だが、わたしは思ったのだ。
どこかに行こう、と。
理由は単純である。先日、群れの長老ペンギンが言ったのだ。
「昔はな、もっと魚がいた」
それだけならよくある昔話だが、彼は続けた。
「北のほうには、緑というものがあるらしい」
緑。
その言葉は衝撃だった。わたしの知る色は、白、黒、そしてたまに青だ。緑というのは、伝説の色である。聞くところによると、地面が緑で覆われている場所があるらしい。しかも寒くないらしい。
寒くない。
なんという甘美な響き。
その夜、わたしは眠れなかった。氷の上でごろごろ転がりながら、緑を想像する。柔らかくて、ふかふかで、転んでも痛くない地面。魚が自分から跳ねてくる海。風が優しく背中を撫でる世界。
翌朝、わたしは決意した。
どこかに行こう。
問題は、どうやって、である。
ペンギンは飛べない。
これは広く知られている事実であり、わたしたち自身もよく知っている。羽はあるが、空のためではなく海のためにある。泳ぐことはできる。むしろ得意だ。だが、北へ行くには、ひたすら泳ぐしかない。
「どこへ行くつもりだ」
仲間の一羽が聞く。
「北」
わたしは言った。
「北ってどっちだ」
それは痛い質問だった。南極では、だいたいどの方向へ行っても北である。なにしろここは南の果てだ。方角という概念が、いまいちピンとこない。
「……たぶん、あっち」
わたしは適当にくちばしを向けた。
「それ昨日は逆って言ってなかったか」
鋭い。彼は余計なことを覚えている。
しかし、決意は固い。
「とにかく行くんだ。緑を見に」
「緑ってなんだよ」
「知らない。でもすごいらしい」
情報源が長老である以上、信頼度は微妙だが、わたしの心はすでに南極を出ていた。
準備といっても、特にない。わたしたちは常に同じ服を着ているし、財布も持たない。魚は現地調達だ。わたしは群れに軽く別れを告げ、海へ向かった。
「死ぬなよ」
仲間が言う。
「なるべく」
わたしは答え、氷の縁から海へ飛び込んだ。
冷たい。
が、これは慣れている。水中のほうがむしろ落ち着く。わたしは羽を動かし、北らしき方向へ進む。
数時間後、早くも後悔が始まった。
遠い。
とにかく遠い。海は広大で、目印がない。魚はいるが、旅のロマンを語り合う相手はいない。ときどきアザラシがこちらを見るが、あれは友情の視線ではない。
それでも、進む。
途中で、一羽のアホウドリと出会った。
「どこへ行くんだい、黒白の君」
彼は空から優雅に降りてきた。
「北へ。緑を見に」
「緑? ああ、草か」
「草?」
「地面に生えてるやつさ。柔らかいよ」
柔らかい。
わたしの想像が一気に具体化する。
「どれくらい遠い?」
「うーん、飛べばすぐ」
参考にならない。
「泳いだら?」
「がんばれば、まあ」
ざっくりしている。だが、存在は確かだ。
「あるんだな、緑」
「あるよ。あと暑い」
「暑い?」
「寒くないってこと」
それは革命的情報だった。
わたしは再び泳ぎ出す。寒くない世界。想像するだけで、羽が軽くなる。
何日も泳いだ。途中で流氷に乗って休み、魚を捕まえ、嵐に遭い、方向を見失い、またなんとなく進む。
そしてある日、海の色が変わった。
どこか柔らかく、匂いが違う。遠くに、白ではないものが見える。
黒でもない。
それは、緑だった。
わたしは浜に上がる。足の裏が凍らない。衝撃だ。地面が冷たくない。むしろ、少し暖かい。
目の前に広がるのは、草原。
ふわふわしたものが、一面に生えている。わたしは恐る恐る一歩踏み出す。
沈んだ。
「うわっ」
転ぶ。だが、痛くない。柔らかい。これが緑か。
わたしは立ち上がり、もう一度歩く。今度は慎重に。
そのとき、声がした。
「なにあれ」
振り向くと、見知らぬ鳥たちがこちらを見ている。色とりどりだ。赤、黄色、青。カラフルすぎて目が痛い。
「黒と白だけって、地味すぎない?」
「新種?」
ひそひそ話が聞こえる。
地味。
わたしは初めて、その概念を突きつけられた。南極では、白黒が標準だ。むしろおしゃれの最先端だと思っていた。
「きみ、飛べるの?」
一羽が近づいてくる。
「飛べない」
「えっ」
絶句された。
「じゃあどうやってここに?」
「泳いで」
「泳いで?」
笑いが起きる。どうやらここでは、泳いで移動する鳥は珍しいらしい。
わたしは少しだけ肩を落とす。緑は素晴らしいが、文化の違いは大きい。
だが、そのとき気づいた。
寒くない。
本当に寒くない。風は優しく、地面は柔らかく、空は広い。
わたしは空を見上げる。
飛べない。だが、ここまで来た。
どこかに行こう。そう思ったあの夜から、わたしは確かに移動した。南極の氷の上から、この緑の地面へ。
それだけで、十分ではないか。
「ねえ、黒白くん」
さきほどの鳥が言う。
「なに?」
「その歩き方、ちょっと面白いね」
「面白い?」
「うん。やってみて」
彼らは、わたしのよちよち歩きを真似し始めた。ぎこちなく、左右に揺れながら。
笑いが広がる。
わたしは少し考え、それから堂々と歩いた。どうせ地味なら、動きで勝負だ。
緑の上を、胸を張って進む。
飛べなくても、地味でも、寒さに強いという特技がある。泳ぎも得意だ。
どこかに行こう。そう思えば、たいていは行ける。
わたしは草原の端まで歩き、振り返る。遠い海の向こうに、白い世界がある。
帰るかどうかは、まだ決めていない。
ただ、ひとつだけ確かなのは、世界は思ったより広く、そして緑は本当に柔らかいということだ。
わたしは深呼吸する。
寒くない空気を、胸いっぱいに吸い込んで。
さて、次はどこへ行こうか。




