水脈を渡る影
どこかに行こう。そう思った。
そう思ったのは、乾いた夜の底で、ひび割れた泥の上に腹をつけていたときだった。月はやけに白く、空はどこまでも遠く、風は匂いを運ばなかった。水の気配がない夜は、世界がひどく軽くなる。軽くなった世界は、わたしの体を取り残していく。
わたしは小さな生きものだ。長い尾を引き、柔らかな腹で地を這い、濡れているときにだけ呼吸がうまくできる。湿り気をまとった闇の中では、わたしは輪郭を持たず、ただ水の流れの一部としてそこにある。けれど、今は違う。乾きが、わたしを一匹のかたちに縛りつけている。
だから、行こうと思った。
水のあるところへ。
記憶の奥に、ひとつの流れがある。冷たく、暗く、やわらかな流れ。岩の隙間からしみ出し、やがて細い筋となって、やさしく土を削っていく。その水は、わたしの体を包み、輪郭をほどいてくれた。あの場所へ戻れば、わたしはまた、ただの流れに戻れる。
けれど、その水脈は、ここから遠い。
乾いた地面は、歩くたびにざらりと音を立てた。わたしの腹が触れるたびに、土はこすれ、剥がれ、粉になる。かつて湿っていた場所には、細かな裂け目が走り、その奥に黒い影をためている。そこに水はない。あるのは、ただ空っぽの気配だけだ。
夜の間に進まなければならない。日が昇れば、乾きはさらに強くなり、わたしの皮はひび割れ、息は浅くなる。影の中を選び、冷えた石の裏をたどり、わずかな湿りを探しながら、わたしは進む。
ときどき、別の生きものの気配がした。
羽音。硬い脚。乾いた殻。彼らは軽い。水を必要としない者たちは、風のように移動する。わたしのそばをかすめ、すぐにどこかへ消える。彼らはわたしを見ない。見たとしても、興味を持たない。わたしは遅く、重く、乾きに弱い。
それでも、進むしかない。
途中、ひとつの石の影で、わたしは立ち止まった。立ち止まる、という言葉は正確ではないかもしれない。わたしは立つことができない。ただ、動きを止め、腹を地面に預け、目を閉じる。
そこに、わずかな湿りがあった。
地面の奥から、ほとんど感じられないほどの冷たさがにじんでいる。わたしは腹を押しつけ、ゆっくりとその冷たさを吸い込む。皮がわずかに柔らかくなり、呼吸が少しだけ深くなる。
生きている。
その感覚が、戻ってくる。
けれど、それは長くは続かない。湿りはすぐに薄れ、冷たさは消え、地面は再びただの乾いた面に戻る。
行かなければ。
わたしはまた、動き出す。
夜は静かに過ぎていく。月は傾き、影の向きが変わる。わたしは、同じような景色の中を進み続ける。石、土、裂け目、そして空。
どれくらい進んだのか、わからない。
けれど、あるとき、空気が変わった。
それは、ほんのわずかな違いだった。風が、かすかに匂いを運んでくる。乾きだけではない、別の何か。冷たさを含んだ、重い匂い。
水だ。
わたしは顔を上げる。見えるものは変わらない。相変わらず、ひび割れた地面と、低い石と、遠い空だけだ。けれど、確かにそこに、水の気配がある。
わたしは、その方向へ進む。
匂いは、途切れ途切れに届く。ときには消え、ときには強くなる。そのたびに、わたしは進む向きを微かに変える。間違えているかもしれない。それでも、ほかに頼るものはない。
やがて、地面の質が変わり始めた。
ざらつきが減り、粒が細かくなる。腹に触れる感触が、わずかに柔らかい。裂け目も、少しずつ浅くなっていく。
そして、ひとつのくぼみに出た。
そこには、影がたまっていた。深い影だ。月の光が届かないほどではないが、ほかの場所よりも濃く、重い。
わたしは、その中へ入る。
冷たい。
はっきりとした冷たさが、腹に触れた。
そこには、水があった。
ほんのわずか。薄く広がった、水の膜。それでも、それは確かに水だった。わたしはゆっくりと体を沈める。皮が水を吸い、乾いていた部分がほどけていく。呼吸が、自然に深くなる。
戻ってきた。
そう思った。
けれど、すぐに気づく。ここは、あの水脈ではない。流れはない。水はたまっているだけで、どこへも向かっていない。
ここは、途中だ。
わたしはしばらくその水に身を委ねる。動かず、ただ冷たさを感じる。体は少しずつ回復していく。けれど、この場所にとどまることはできない。
水は、減っていく。
わずかな膜は、時間とともに薄くなり、やがて消えるだろう。そうなれば、ここもまた、ただの乾いたくぼみに戻る。
行かなければ。
わたしは、水から体を引き上げる。名残惜しさはあるが、それに従えば、終わりだ。
再び、匂いをたどる。
今度は、さきほどよりもはっきりしている。冷たく、重い匂い。わたしの内側が、それに引かれる。
進む。
進む。
夜は、もう終わりに近づいている。東の空が、わずかに白み始めている。時間は多くない。
地面はさらに変わる。柔らかさが増し、ところどころに湿りがある。小さな草の根が、土の中に広がっているのがわかる。根は、水を知っている。
やがて、音が聞こえた。
かすかな音。ほとんど、耳では捉えられないほどの微かな震え。それでも、確かにそこにある。
流れの音だ。
わたしは、急ぐ。体は重いが、止まらない。匂いと音が、同じ方向から来ている。
そして、見つけた。
細い溝の中を、透明なものが動いている。月の残りの光を受けて、わずかに光るそれは、確かに流れていた。
水脈だ。
わたしは、迷わずそこへ入る。
冷たさが、全身を包む。乾いていた皮が、一瞬でほどける。輪郭が、ゆるやかに崩れていく。わたしは、水の中で、再び形を失う。
流れに身を任せる。
わたしは、わたしでなくなる。
石の間をすり抜け、細い流れに沿って、体がほどけていく。どこからが自分で、どこまでが水なのか、わからなくなる。
それでいい。
それが、わたしだ。
流れは続いている。どこへ向かうのかは知らない。けれど、止まってはいない。
わたしもまた、止まらない。
どこかに行こう。そう思った。
その思いは、もう形を持たない。ただ、流れの中に溶けている。
乾いた夜を越えて、わたしは水になる。
そして、水のまま、どこまでも行く。




