最終列車
どこかに行こう。そう思った。
それは、衝動というよりも、ゆっくりと沈殿してきた決意のようなものだった。長いあいだ心の底に溜まり続けていたものが、ようやく形を持ったのだ。
夜だった。
駅のベンチに座りながら、私は何本もの電車を見送っていた。どれも行き先ははっきりしていて、乗ろうと思えばいつでも乗れた。だが、そのどれにも、足は動かなかった。
行き先が決まっている電車には、乗れない。
そういう気分だった。
改札の向こうから、人の流れが絶え間なく続いている。仕事帰りの人、学生、買い物袋を抱えた人。みんな、それぞれの帰る場所を持っている。
私は、どこにも帰る気がしなかった。
ポケットの中に、小さな紙片が入っている。
白い紙に、たった一行。
――最終列車は、来ない。
それが誰の言葉なのかはわからない。気がついたときには、すでに持っていた。捨てることもできたはずなのに、なぜか手放せなかった。
ホームの電光掲示板が、次の列車の到着を知らせる。
だが、その中に「最終」の文字はない。
この駅の最終列車は、すでに終わっているはずだった。
それでも私は、待っていた。
来ないと書かれているものを。
「まだ待つの?」
声がした。
隣を見ると、いつの間にか老人が座っていた。小柄で、深い皺の刻まれた顔をしている。だが、その目は妙に澄んでいた。
「ええ」
私は答える。
「来ないらしいですけど」
紙片を見せると、老人は目を細めた。
「それ、誰が書いたんだい」
「わかりません」
「じゃあ、どうして信じる」
私は少し考えた。
「信じているわけじゃないんです」
「ほう」
「確かめたいだけで」
老人は小さく笑った。
「若いね」
その言葉に、少しだけ違和感を覚えた。年齢のことではない。もっと別の意味で言われている気がした。
「あなたは、待たないんですか」
私は聞いた。
「最終列車を」
「わしはね」
老人はゆっくりと言う。
「何度も乗ったよ」
「来ないはずなのに?」
「来ないとは、限らん」
その言い方は曖昧だった。
「ただし」
老人は指を一本立てる。
「乗れる者は、決まっている」
「どういうことですか」
老人は答えず、ホームの先を見つめた。
釣られて視線を向ける。
線路の向こうは暗く、何も見えない。
「耳をすませてみなさい」
老人が言う。
私は言われた通りにした。
最初は、いつもの駅の音しか聞こえない。アナウンス、足音、遠くの話し声。
だが、しばらくすると――
微かな音がした。
レールをなぞるような、低い振動。
「……来てる?」
思わずつぶやく。
老人は何も言わない。
音は少しずつ大きくなる。
だが、不思議なことに、電光掲示板は何も表示しない。
アナウンスもない。
周囲の人々も、まるで気づいていない。
音は、確かに近づいているのに。
「見えるかい」
老人の声。
私は目を凝らした。
暗闇の奥に、かすかな光がある。
ヘッドライト。
だが、形がはっきりしない。揺らいでいるようにも、歪んでいるようにも見える。
「これが……」
「最終列車だ」
老人が言った。
電車は音もなくホームに滑り込んできた。
古い車両だった。
だが、どこか現実感が薄い。輪郭が曖昧で、見ていると焦点が合わなくなる。
ドアが開く。
中は暗い。
誰も乗っていないように見える。
「行くかい」
老人が聞いた。
私は立ち上がった。
足が震えている。
「乗ったら、どうなるんですか」
老人は、少しだけ笑った。
「“終わる”か、“始まる”か」
「どっちですか」
「それは、乗る者が決める」
私は、ポケットの紙片を握りしめた。
――最終列車は、来ない。
確かに、普通の意味では来ないのだろう。
誰にでも見えるわけではない。
誰にでも乗れるわけでもない。
だから“来ない”。
だが、いまここにある。
私は一歩、前に出た。
ドアの前に立つ。
中から、冷たい空気が流れてくる。
「ねえ」
ふと、振り返る。
「あなたは乗らないんですか」
老人は首を振った。
「わしは、もう降りたからね」
その言葉の意味を考える前に、ドアがわずかに軋んだ。
時間がない。
私は深く息を吸った。
そして、足を踏み入れる。
車内は、思ったよりも静かだった。
席に座る。
ドアが閉まる。
その瞬間、外の音がすべて消えた。
電車が動き出す。
窓の外は、もう駅ではなかった。
なにもない。
ただ、黒い広がり。
私は、ようやく理解した。
どこかに行こうと思ったあの瞬間から、すでに乗っていたのだと。
この列車に。
どこへ向かうのかは、まだわからない。
けれど、不思議と怖くはなかった。
最終列車は、来ない。
でも――
乗ることは、できるのだ。




