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ゆっくりと進む背中

 どこかに行こう。そう思った。


 それは、ぼくにとってめずらしい考えだった。なにしろ、ぼくは亀だ。急ぐこともなければ、遠くへ行くこともほとんどない。


 歩くのは遅いし、背中には重たい甲羅がある。けれど、それが当たり前だった。森の端にある小さな池で生まれ、同じ場所で何度も季節を見送ってきた。


 春はやわらかい光が水面に揺れ、夏は虫の声が響き、秋は葉が落ち、冬は静かに凍る。


 その繰り返しの中で、ぼくは満足していた。


 ……はずだった。


 ある日、渡り鳥がやってきた。


 大きな翼で空を切り、池のほとりに降り立つ。羽には長い旅の匂いがついていた。


「ここは、どこだい」


 鳥はぼくに尋ねた。


「森の端の池だよ」


 ぼくは答える。


「へえ」


 鳥は空を見上げた。


「ずいぶん静かな場所だね」


「うん。いいところだよ」


「でも、狭い」


 その言葉に、ぼくは少しだけ戸惑った。


 狭い、という感覚は、あまり持ったことがなかった。


「きみは、どこから来たの?」


「北の海の向こう」


 鳥はあっさりと言った。


「海?」


 ぼくはその言葉を繰り返した。


 聞いたことはある。でも、見たことはない。


「水がどこまでも続いてる場所だよ」


 鳥は翼を広げる。


「終わりが見えないくらいに」


 ぼくは想像してみた。


 この池よりも、もっと広い水。


 でも、うまく思い描けない。


「見てみたい?」


 鳥が聞く。


 ぼくは少し考えた。


 そして、ゆっくりとうなずいた。


「見てみたい」


 その瞬間、胸の奥で何かが動いた。


 今まで感じたことのない感覚。


「じゃあ、行けばいい」


 鳥は言う。


「ぼくは飛べないよ」


「でも、歩けるだろう?」


 当たり前のことだった。


 けれど、その当たり前を、ぼくは使ったことがなかった。


「遠いよ?」


「うん」


「時間がかかるよ?」


「うん」


「それでも?」


 鳥はじっとぼくを見た。


 ぼくは、もう一度うなずいた。


「それでも」


 鳥は満足そうに笑った。


「いいね」


 そして、空へ飛び立っていった。


 ぼくはしばらくその場にいた。


 池の水面が揺れている。


 いつもと同じ景色。


 でも、少しだけ違って見える。


 ぼくは一歩、前に出た。


 それが旅の始まりだった。


 地面の感触を確かめながら、ゆっくりと進む。


 森の中は見慣れているはずなのに、いつもよりも細かく見える。小さな石、落ち葉の重なり、土の湿り気。


 今まで、ただ通り過ぎていたもの。


 それらが、ひとつひとつ、はっきりと存在している。


 途中で、リスに出会った。


「どこへ行くの?」


「海を見に」


 そう言うと、リスは驚いた顔をした。


「そんなに遠くへ?」


「うん」


「いつ着くの?」


「わからない」


 リスはしばらく考えてから、笑った。


「変なの」


「そうかな」


「でも、ちょっといいかも」


 リスは木の実をひとつ、ぼくの前に置いた。


「途中でお腹が空いたら食べて」


「ありがとう」


 ぼくはそれを大事に背中に乗せた。


 また進む。


 日が暮れ、夜が来る。


 ぼくはその場で眠る。


 朝になると、また歩く。


 とてもゆっくりだ。


 景色はなかなか変わらない。


 それでも、確実に前へ進んでいる。


 ある日、地面の匂いが変わった。


 湿った空気の中に、塩のような匂いが混じっている。


 風も違う。


 遠くから、低くて大きな音が聞こえる。


 ざあ、ざあ、と。


 ぼくは歩く速度を、ほんの少しだけ上げた。


 そして――


 視界が開けた。


 目の前に、広い水が広がっている。


 どこまでも、どこまでも。


 終わりが見えない。


 波が打ち寄せ、光が反射している。


「これが……」


 ぼくは言葉を失った。


 池とはまるで違う。


 大きさだけじゃない。


 音も、匂いも、空気も、すべてが違う。


 ぼくはしばらく、その場で動けなかった。


 ただ、見ていた。


 やがて、波が足元に触れた。


 冷たい。


 でも、やさしい。


 ぼくは小さく息を吐いた。


 ここまで来るのに、どれだけ時間がかかったのか、もう覚えていない。


 でも、それはどうでもよかった。


 ここに来たこと。


 それがすべてだった。


 ふと、背中の重さに気づく。


 甲羅。


 ずっと重いと思っていた。


 でも、今は違う。


 この甲羅があったから、ここまで来られた気がした。


 傷も、汚れも、すべてが道の記録だ。


 ぼくは、ゆっくりと振り返る。


 遠くに、歩いてきた道がある。


 見えないけれど、確かに続いている。


 そして、また前を見る。


 海は、まだ続いている。


 どこまでも。


 どこかに行こう。そう思った。


 今度は、もう知っている。


 どれだけ時間がかかっても、進めばたどり着くことを。


 ぼくは、また一歩、前に出た。


 ゆっくりと。


 でも、確かに。

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