8.ナニとは言わないが、そういう話ではない
ここにきてようやく、当チャプターの主要ヒロインの外見描写がほぼ無いことに気づく。
「ふぅ……さっぱりしました」
しばらくして、汗や垢を流し終えたアイリスは、着替えを纏ってシャワールームを出た。
シャワールーム内には体を洗うための器具も備えてあり、それらをいくつか借りたおかげで垢や汚れもほとんど落ちている。
濡れた髪についた水分を厚手のタオルに吸わせながらソファに座り、のんびり独りごちる。
「あまり気にしてませんでしたけど、やっぱりきれいにするといいものですね」
気にする余裕もなかったというべきだろうか、もしくは汚れる日常が長すぎて感覚が麻痺していたのか。
荒野を歩いていた時には別に構わないと特に違和を感じずにいたが、それでも洗い落としてみると、肌を通して感じる空気や纏う布の感触も違うように思える。
「服も、着られるものがあってよかったです……少し、ぶかぶかですけど」
脱衣所内には普段から置いているのか、服が数揃い用意されていた。
しかし、そもそも住人がルイとオルビスしかおらず、当然ながら衣服は二人に合わせたものだ。
女性向けという点ではルイのものを借りたかったが、小さすぎて袖が通らなかったので、ほとんどをオルビスのもので補うことにした。
なるべく自分に合いそうなモノを選んだつもりだが、それでも体格の差によるものか、布地が余る。
具体的には、長袖のシャツもズボンも、アイリスが目一杯手足を伸ばしたところでその先も露出しないほど。
動きやすいように袖や裾を捲ってみれば多少はマシになるが、それでもだぶついた感じは否めない。
薄着で歩き回っていた身であったアイリスには、重しを付けてでもいるかのような感覚に戸惑う。
――あとで、他に着られる服を手に入れられないか、探してみますか。
思いながら、ふと部屋の隅に据えられた姿見の全身鏡が目に留まり、その前に立ってみる。
そこに映る自分の姿を見て、アイリスは自然と笑みを浮かべている自分に気づいた。
身だしなみに気を遣う余裕など無かったから当然だが、ほんの少し前まで髪も肌も砂まみれ垢まみれだったのだ。
元の色など知りようもなかった長い髪は明るい茶色を取り戻し、肌も垢が落ちて色白さが眩しい。そんな変化が、確認できる余裕がある今が、ただ嬉しい。
――それで、あとはどうしましょうか。
起こすな、とメモに書かれていた。
部屋から出るな、とも。
シャワーを浴び終えたアイリスには特にやりたいこともなく、寝直そうにも目が冴えてしまっていた。
きょろきょろと周りを見回してみると、テーブルの上に数枚の紙を紐で括った紙束が目に入り、試しに手に取ってみる。
『ミスマス主街区直近情報』
表紙と思しき一枚目の中央には手書きだろうか、そんな単語が書きなぐられており、右下に発効日らしき数字が添えてある。
そもそも今の時間すらも分からないアイリスには日付など何の指標にもならなかったが、それでもこの<都市>の情報だろうということはわかる。
――メモでは、別に読んでも構わないと言ってましたっけ。
――他にやりたいこともありませんし、試しに読んでみましょうか。
時間潰しにもちょうどいいと、手に取っる。
そして、すぐにその目は紙の上を滑っていくことになる。
『【ネイバーフッド】の外周第9支部崩壊』
『【縛鎖】規模拡大、リチェ氏の語る今後の活動』
『各ギルドに依頼増加、発端は【黄龍】の体制変化か』
――ねいばーふっど? ばくさ? ほぁんろん?
目に入った見出し文を頭の中で反芻してみるが、それは特に意味を持たない空回りで終わる。
頁を捲っていた手は徐々に緩慢に、そしてそれもすぐに止まる。
――読んでも、分かりませんね……
端的に言えば、その中身を理解できなかった。
文字を追えば追うほど、何の何を語っているのかが分からず、結局は諦めた。
――そう、ですね。
――大事なことを、忘れていました。
それは、少し考えればわかる程度の事実だ。
アイリスは、この<都市>を知らない。
この建物の集まりに、どれだけの住人が、どんな暮らしをしていて、その中にどういった組織が何を目的として動いているのか。
そんな基本的な情報を、アイリスは知らない。
ただただ無知なままに、断片的に出来事が書かれたものを読んでも、分かるはずがないのだ。
どこかの誰かさんが何かをした、程度の認識でしかない身では、理解するなど程遠い。
ただの文字の羅列と化した紙束をもとの場所に戻しながら、アイリスは力なく息を吐く。
これで、ほかに何もすることが無くなった。
手持無沙汰に天井を仰げば、白地に所々が黄ばんだ天井があるだけで。
「どうしましょうね……」
漏らした呟きには当然、応える者はいない。
ただ、
「……んん?」
聴覚は、"それ"を捉えた。
――すぅ――すぅ
――グォーッ――グォーッ
"それ"は、二つの呼吸音。
片方は静かで落ち着いた、もう片方は粗野で荒々しい音。
ルイとオルビスの寝息と、いびきだ。
――まだ、眠っていたんですね。
今まで聞こえていなかったわけではない。
起きた時からずっと聞こえていて、だけど意識に入れていなかっただけ。
――シャワーを浴びても、結局起きませんでした。
水音はその大半が浴室内を反響するだけに終わるが、完ぺきな防音ではない。少なからず、その外にも漏れるはずだ。
しかし、よほど疲れていたのだろうか、二人はいまだに眠り続け、その呼吸音に乱れは無い。
寝息といびきの聞こえる方向は同じで、入り口とアイリスの寝ていたソファのある空間とは別の、衝立で遮られた向こう側で、こちらからは二人の寝ている姿は見えない。
それから少しの間、ソファに身を沈めながら寝息といびきに耳を傾けていたアイリスだったが、ふと思い立って立ち上がる。
――少し、覗いてみましょうか。
心中に芽生えたのは、ささやかな悪戯心。
眠気は失せ、読み物は中身を理解できず、部屋の外にも出られない。
助けられた恩義、気遣いへの理解はあれど、持て余した退屈はまた別の話だ。
そろり、そろりと足音を最小限に部屋を横切る。
――どんな風に寝ているんでしょう。
別に、寝ているのを邪魔したいわけではない。
ただの悪戯心、その寝顔や寝姿くらいはこっそり盗み見てやろうという、些細な企てだ。
そろり、そろり、と。
しかし、その忍び足は、衝立を回り込んだところで――その向こう、ちょうど二人の寝姿を見られる場所に差し掛かったところで、止まる。
「な―――っ」
反射的に出かけた悲鳴に似た叫びを、ギリギリでアイリスは自分の手で塞いで押し殺す。
――な、な、な、な……っ
叫びかけたのは、目の前に広がる光景に驚いたからで。
バクバクと高鳴る鼓動が周りにも聞こえてしまいそうな錯覚に体を強張らせ、とっさに閉じた瞼の裏にも"それ"は浮かび上がっていた。
「――グォーッ――グォーッ」
「――すぅ――すぅ――」
衝立の向こうには、セミダブル程度のサイズのベッドが、一つ。
その上に、眠る前に入浴を済ませたのだろうか、髪や肌から砂塵が洗い落とされ、外を歩いていた時に着ていたゴテゴテした服とは違う、薄手の部屋着を纏った二人が眠っていた。
問題は、その体勢だ。
ベッドの中央付近で、オルビスは大の字でいびきをかいていて。
それに寄り添うように……というより、オルビスの腕に抱きつきながら、ルイが寝息を立てている。
――ふ、二人はそういう関係だったんですね……っ!?
ふいに浮かんだ、"憶測"。
混濁した頭の中、無意識に片足が後ろに下がる。
そして――ぎしり、と。
踏んだ足の下で、木の床が軋みを発した。
それは、静かな室内に、やけに大きく響いて。
「っ………! っ………!」
それ自体は微かな音だったが、上げかけた叫びや心臓の音よりも明確な物音に、飛び跳ねてしまいそうな緊張が全身に走る。
――聞こえました? 聞こえてしまいました!?
更に後退して逃げたかったが、その結果でまた床の音が響かないかと恐れて動けなくなった。
「――ぐぉ……んん?」
声。
ぎしりと、床板とも違う、ベッドの骨組みの軋み。
――あ、
――だめ、でした。
へたぁ、と脱力してその場に座り込んだアイリスは、いびきが途切れるとともにオルビスが起き上がるのをぼんやりと眺めていた。
「くあぁ……お前、そんなとこで何してんだ」
「え、あ、そ、そのっ」
あくび混じりにベッドの上から見下ろすオルビスに、慌てて立ち上がりながらアイリスは言い訳を探すが、形にならない途切れ途切れの欠片が漏れるだけだ。
「メモの文字は読めなかったのか?
起こす必要はない、と書いておいたはずだが」
「読めましたけど……」
「なら、なぜ……いや、いい。
こうして今、起きたわけだしな」
はぁ、と悩まし気な息を吐きながらこめかみを揉むオルビスに、あのう、とアイリスが尋ねる。
「おやすみの邪魔を、してしまいましたか……?」
「いや、よく眠れた。
気分も悪くない」
オルビスがそう答えた直後、んん、とか細い声が部屋に響く。
「どう、したの?」
ぐしぐしと目を擦りながらルイが起き、口にした問いに、オルビスは首を横に振る。
「別に、何でもないぞ」
「なら、いいけど」
「よく眠れたか?」
「それなりに……ああ、アイリスもいたの。
あなたは、どう?」
「は、はい、よく、眠れましたっ。
ありがとうございますっ」
上ずった声のアイリスに興味があるのか無いのか、そう、とだけルイは言ってそそくさとベッドから出た。
その足で壁際へと歩いていき、そこに下げてある灰色の上着を手に取って袖に腕を通していく。
「さて、と」
オルビスもベッドから出て、伸びをしながら立ち上がる。
「よく眠って、汚れも流したし、次にやることは一つだな」
「どこ、行くんですか?」
ドアへと向かう気だるげな足取りにアイリスが尋ねると、振り返りもせず答えは返ってくる。
「メシ、行くぞ」




