7.もしもの恐怖より、今の安らぎを
申し訳程度のシャワーシーン付きです。
色気もへったくれもねえ……
夢を、見ている。
そうとわかったのは、目の前に広がる光景がひどく見覚えのあるものだったからだ。
広い部屋だ。
天井は遥か高く、乱立する本棚に遮られてよく見えないが、部屋の中を流動する空気が、その空間に果てがないような錯覚を感じさせる。
天井近くまでそびえる本棚の数々には乱雑に本が収められており、別に収まりきらないわけではないだろうに、部屋の主にその気がないのか、床にまで重ねられた本の山脈が侵食している。
部屋の中央には、小さなテーブルがあった。
その上には円筒状の置物があり、内部にはなにかが入っているのか、無数の光の粒がうごめいては辺りを不規則に照らしている。
そのテーブルに添えられたいくつかの椅子、その一つに彼女――アイリスは、座っていて。
その向かい側に、"彼女"はいた。
"彼女"の顔は、暗がりに隠れてよく見えない。
ただ、少女と呼ぶべきなのだろうか、女性的なシルエットは小柄で、真っ白のワンピースと白銀の髪が光の中で浮き出ていて、まるでそれ自体が光を放っているようでもあった。
――これは、"あの時"の……?
目の前に広がる光景。
そこに酷い既視感を覚えながら、アイリスはぼんやりと眺めていた。
『いらっしゃい。よく来てくれたね』
"彼女"の口元が動いて、言葉を紡ぐ。
表情は、暗くてうまく読み取れない。
『大変だったね……っていうのは、皮肉にしか聞こえないかな。
あなたにかける言葉を、わたしはよく知らないの』
その時、自分は何を口にしたのだろうか。
発した声は聞こえず、ただ口を、喉を動かす感覚だけが発声の事実を伝えてくる。
対する"彼女"はそれを聞いて、うん、うん、と頷く。
『ごめんね、あまり軽々しく言わない方がよかった。
だけどここに来れるというのは、そういうことだから』
そうでなければ、至れない。
ここに来ることは、できない。
そう言いたげに、"彼女"は口にする。
『わたしは、あなたが今まで生きてきた日々を、ここに来た"理由"を知らない。
けれど、この場所に辿り着けたあなたの"これまで"が、とても、とても大変だったということだけは、知ってる』
滑らかに並べられる少女の言葉は、それまでにも何度となく口にしてきたように淀みがなく、しかし定型文を読み上げるような事務的な風でもない、心から紡がれるものだった。
『これから、あなたは今までとは別のあなたになる』
"彼女"が、告げる。
暗くて目元は見えないけれど、こちらを見つめているのがわかる。
『あなたが行くのは、一つの世界。
あなたが元々いたのとは違う、別の世界』
言いながら、"彼女"はアイリスを――正確にはアイリスの背後を指で示す。
夢の中のアイリスも振り返り、その視線の先には木製の扉が一つあった。
『そこを抜ければ、あなたは、ここから出ることができる。
戻ることはできないけどね』
一方通行なの、と"彼女"は言う。
『だけどその前に、あなたにいくつか教えておきたいことがある――』
●●
「っ…………」
気が付くとアイリスは目を覚ましていた。
見えたのは、灰褐色の煤けた木目の天井で。
次に、横たわっているモノの柔らかさと、体にかかっている薄い布の温もりを感覚が捉える。
「っ、はぁ……」
天井に視線を置きながら、なぜか荒くなっていた息を整える。
馴染みのない天井。
馴染みのない感触。
馴染みのない空気。匂い。
――そういえば、眠っていたんでした。
寝返りを打ち、姿勢を変えながら目を閉じる。
ぼんやりと、霧のかかった思考の中、脳裏に浮かぶのは、眠りに落ちるまで、その過程だった。
ルイの背中を追って入っていった建物。
彼女の後を着いていった先は、階段を上って二階にある一室で。
『よし、寝ろ』
アイリスが入るのを確認し、部屋の内カギを閉めてからのオルビスの開口一番がそれであった。
『ど、どういうことですかっ!?』
アイリスは驚いた。
『いろいろと教えるって……い、言ったじゃないですか』
落ち着ける場所で、教えると。
こちらを思った言葉で、そう言ってくれたから。
問い詰めたい欲求を抑えて、ここまで来たのに。
『話を聞いてなかったのか?』
ため息交じりに、オルビスは言う。
『俺は疲れてる。ルイもな。
あんたは後ろで寝てただろうが、こっちは寝ずの移動をぶっ続けだ』
言いながら、オルビスは部屋の中にある棚をごそごそと漁り始める。
『結論を言えば、早く休みたい。
正直、今はこうして話すのすら面倒なんだ』
それにな、と。
『落ち着ける場所で話すとは言ったが、「いつ」かは言ってない』
『へ、屁理屈じゃないですか……っ』
小さな抗議を無視したオルビスが取り出したのは薄手の掛け布で、それをアイリスへと放ってやる。
『それとも、眠くて頭が鈍ってるヤツに、お前はいい加減な情報を吐き出せて満足するのか?』
『……わかりました』
皮肉たっぷりに言われては、言い返すこともできず。
しぶしぶ、言い分に従って。
――それで、寝ていたんでしたっけ。
なんだかんだ言って、横になって目を閉じていたらそのまま眠り込んでいたらしい。
荒野を歩き続けた疲れがまだ残っていたのだろうか。そもそも、荷台にどれほど乗っていたかは分からないが、それだけで十分に休めるかという話でもあるし。
静かに掛け布をどけて、起き上がる。
見回してみれば、アイリスが寝ていたのは何かの革が張られたソファだった。そして、その正面にあるテーブルには紙切れが小石を重しにして置いてあり、ぱっと見では書置きの類のようだ。
よく周りを見もせずに寝てしまったのでそれがいつ書かれたものか、そもそも自分宛てのものかも分からないが、とりあえず重しをどかし、書置きを手に取る。
『とりあえず、おはよう。
これをお前が読んでいるとき、俺かルイが起きていればいいが、寝ている場合について書いておく。
まず、起こすな。勝手に起きるから。
退屈だろうと思うが、起きるまで我慢していてくれ。
体の汚れが気になるならシャワーを使ってくれていいし、着替えたければその辺のものを適当に来てくれて構わない。(シャワーの使い方についてはもう一枚の方に書いておく)
あとは、その辺に転がってる情報誌でも読んでも構わないし、とにかく静かに待っていてくれ。
決して部屋の外には出ないように。
この世界にやってきて早々、面倒とは思うが、お前自身のためにもこちらのやり方に従ってくれると助かる。
オルビス』
――待っていろ、ということですか……
始めにとりあえず書いたような挨拶だけ、後は事務的に書き並べただけのような中身を読みながら、アイリスはため息を吐く。
ここまで来てお預けを食らう悔しさもあったが、心の底では納得もしていた。
自分が<シトロン>で眠っている間も、彼らは休まずに移動していたのだから、何度もぼやいていたように、疲れていたのだろう。
そんな中でもこうして書置きを残してくれていたのは、起きた時に何も分からないこちらを気遣ったうえでのものだ。
――向こうとしても、勝手に起こされるのは嫌でしょうし、ね。
結論付けてどうにか自分を納得させると、とりあえずは体にこびりついた汚れを落とすことにした。
書置きの二枚目に従い、入り口のドア脇にあるシャワールームに入る。
しかし、
「どうしましょう、これ……」
早々に立ちはだかった"難関"にアイリスは困惑の声を漏らした。
そもそもの話として、長い時間を着替えもなく一着だけで歩き回っていたのだ。既に破れやほつれでボロボロだったうえに砂埃だけでなく垢や汗でガチガチに張り付いていて、纏っていた服は、普通に脱ぐのもままならない状態だった。
使い方のメモがあるとはいえ、見たこともない道具を使うには何かしらのトラブルが起きるだろうことはアイリス自身も予想していたが、それ以前の問題だった。
アイリスはその場で少し考えた後、まともに脱ぐのは諦めて今の服は捨てることにした。
服が破れるのもお構いなしに肌から引きはがすように脱ぎ、できた布切れは部屋の隅合った屑籠に放り込んでいく。
――洗って繕った程度でもう一度着られるようにも思えませんし。
――着替えもいただけるようなので、お言葉に甘えることにしましょう。
それからシャワールームに入り、メモを頼りに室内をしばらく物色したのち、壁際にあるコックを操作する。
「わぷっ」
直後、シャワールームの天井に空いていた細かい穴から熱い湯が降り注ぎ、突然の感触にアイリスは驚きの声を上げた。
しかし動揺は一瞬で、すぐにじんわりと広がる温もりに全身が緩む。
――暖かい、ですね。
湯が体表を流れ落ちるのを、アイリスはしばらくの間ぼんやりと眺める。
熱を持った湯は透明で、おかしな匂いもない。
肌を伝って口に入っても味は無く、飲み込もうとはしなかったが、清潔な、もしくは人体に害がないものなのだろうとアイリスは理解した。
――きれいな水と、それを沸かす設備。
――それが、自由に使えるのですね……
使う前に、誰かに断りを入れたわけでもない。
ただコックを捻っただけで、熱い湯があふれ出た。
その仕組みが、どれほどの工夫によって、技術によって為されているか、アイリスには分からなかったが、
「……"彼女"の言っていた通り、本当に知らない場所に来てしまったんですね」
誰にともなく呟きながら思考をよぎるのは、昨夜に見た光景だ。
――夥しい数の本の山。
――暗い部屋を不規則に照らす謎の円筒。
――申し訳なさそうに話し、けれど明るく送り出してくれた、銀髪の"彼女"。
見たモノの一つ一つを、はっきりと思い出せる。
それほどまでに、鮮烈だったから。
「あれは、何だったんでしょう……?」
問いに答える者はいない。
だが、口に出さずにはいられなかった。
「夢だったけど……確かに私は、あそこにいたはずです」
夢は夢だ、実際に自分があの場所に座り、見知らぬ少女と言葉を交わしたわけではない。
だけど、あの会話自体は、過去に実際にあったことなのだ。
そう言い切れるのは、自分が経験し、未だ覚えているからだ。
ただ、新しい記憶に埋もれかけていたのが、夢という形で表に出てきただけで。
「私が、何でもない"日常"から摘まみだされて、何もないあの廃墟に出るまでの、その間の……」
覚えている。
始まりは、唐突だった。
自分が知っていた"日常"を過ごす中で、気づいたらあの部屋にいて。
夢にあったように、"彼女"と話をして。
促され、あの木の扉を開けて。
それから、
「――あの、瓦礫以外に何もない、廃墟にいたんでした」
覚えている。
よく、覚えている。
あたり一面の建物が崩れたような場所。
ただ、自分のいる場所から遠く離れてはいるものの、その瓦礫まみれの場所を大きく覆うように高い"壁"が取り囲んでいて。
「怖くなって逃げだして、いつの間にか、荒野を彷徨っていて」
それからは、経験したとおりだ。
歩いて、寝て、歩いて、寝て。
力尽きて、倒れて、諦めて……助けられて。
そうして、今、生きて、温かいシャワーを浴びている。
「……もしも、」
もしも、あそこで助けられなかったら。
もしも、あの場で誰にも助けられず、気づかれることすらなかったら。
「っ………」
想像しただけで背筋が寒くなってきて、考えを振り払うようにぶんぶんと頭を振る。
「忘れましょう……あったかもしれない、ことは」
もしもなんて、今は考えなくてもいい。
「救われて、ここにいる今が、現実ですしね」
かざした両掌に湯をためて、ざぶりと顔にかぶりながら、独りつぶやく。
迷いを振り切ってアイリスは、全身に浴びる温もりを堪能する。
屋根の下で、地面じゃないところでぐっすりと眠って。
きれいなお湯で体を洗える快感が、今、この時のすべてだ。




