戻らぬもの
古文書には、こう記されていた。
それは代償と引き換えに、願いを叶える神であると。
かつてこの大地を見守り育んだ神の一柱は、その存在を虚ろなものへと変化させた。
そうしなければならなかった何かが起こった。
空から落ちてきた光が、この世界のあらゆる理を変えてしまったのだと。
それでも、神は願っていた。
例え本来の力を失ったとしても、この大地に生まれた子供達を殺させることはできないと。
地に埋もれ、日の光の差さない底でその生活を余儀なくされようと。
犠牲なくしてはもう、明日を生きることすらできない状態であろうとも。
神と呼ばれ崇められたその本能のようなものが、『彼等』の存在そのものが消えることを拒み続けていた。
一を犠牲にして、百を残す。
それさえ続けていればいつか。
例えその家族が涙を流そうと、想い人が後を追い身を投げようと。
生きていれば、生き延びればいつかまた日の光を浴びることができる。
それこそが、願い。
願いを叶える者が抱いた、願い。
「……ああ」
白い光の中で、ニコラスは知る。
その胎内とでもいうべき、光に満ちた世界で。
本来ならば人間は存在できないほどの魔力の密度に包まれながら、ニコラスは何かを見つめていた。
すぐ傍に、誰かがいる。
必死でニコラスにしがみついて、離れないようにと。
まるで幼子のようにそうしている『誰か』の姿は他でもない。
ニコラス自身が探し求め、狂気に身を窶しながらも探し求めた愛する娘の姿そのものだ。
「……シェーラ」
その名を呼ぶ。
今はもう、失われてしまった名前を。
少女が目を開けて、ニコラスを見る。
――そんなことはわかっていた。
一瞬でも期待してしまった。
ここでなら、この魔力による神秘が満ちた空間でならば、愛する娘にもう一度会えるのではないかと。
全てを捨てて辿り着いたこの果てならば、そのぐらいの奇跡は起こってもいいのではないかと、そんなことに縋ってしまった。
こちらを見る少女の瞳は、不思議な光彩をしている。
それが彼女が娘ではない証。
気の迷いで生み出された、娘を模して作られた哀れな人形である証拠そのものだ。
「本当は、もうわかっていたというのに」
そんな奇跡があるわけがないのだと。
炎や風を生む魔法が、英雄を存在させる神の威光が。
どのような奇跡を起こしたとして、それが何人の人を救ったとしても。
「失われたものが戻ることなど、ありはしないというのに」
超常の力を手にしたとしても、そんなことができるわけがないと、ニコラスは心の何処かで理解してしまっていた。
だからこそ、狂気に染まる必要があった。現実から目を背け、その方向だけを見て邁進しなければ、もう立ち上がることができなかったからだ。
「お父様」
「……シェーラ」
久方ぶりにその名を呼ぶ。
この娘は、幼い頃はシェーラだった。ニコラスはそう思い込もうとしていた。
だが、成長していくにつれて全てが違っていた。
シェーラはニコラスに似て、勉強が好きで大人しい性格だったのだ。
一方のこの娘は、活発で思慮が浅く、考えなしに行動する。
年月が経過し、身体が成長するにつれて。
娘の未来に似た形をした別物が、ニコラスに語り掛けてくる。
「お父様、安心して!」
今こうしているように。
ニコラスの思い出の中にある愛する娘と同じ声色で、彼女がやらなかったような明るい喋り方をするのだ。
「あたしがお父様のこと、護ります。絶対に、ここから出られるようにしますから」
――明るい声で。
この期に及んで、全てを利用して使い捨てようとした忌むべき男に対して、そう語りかけるのだ。
「……何故だ?」
「……ふぇ?」
問い返せば、間抜けな顔で首を傾げる。その表情も、娘はしなかったものだ。
「何故、私を、私を恨んではいないのか? 悪戯に貴様を生み出し、切り捨て、あの日から一度たりとも顔を見ようともしなかった私を!」
「恨んでなんかいません」
「……どうしてだ? お前は、お前達人造兵は……! 人間の身勝手で生み出されて、そして捨てられた哀れな……!」
シェーラが首を振る。
「哀れじゃないです。シェーラにはミラもイングリッドもいるし、お父様が一緒に遊んでくれた子供のころの思い出があります。それに、あいつも」
「あいつ?」
「あのルクスって奴も、哀れじゃないです。自分で考えて、誰かを助けたいって思ってるんです。シェーラがお父様のことを大好きなように」
「理解できない、どうしてだ……。お前は私を恨むはずだ。それだけのことをしてきた、その挙句に、ここに……! ここでお前を……!」
シェーラの手が、ニコラスの手を握った。
記憶の中にあるものよりも少しだけ成長した、それでもまだ小さな手は、驚くほどに温かな熱を持っている。
「シェーラはお父様に生み出されました。お父様がいなければ、この世界を見ることもできなかったし、ミラとイングリッドにも会えませんでした。この世界はとっても綺麗で楽しいことがいっぱいです」
真っ直ぐにニコラスを見ながら、そういった。
美しい光彩の瞳を、少しだけ潤ませながら。
「だから、シェーラは幸せでした。お父様にこの世界に産んでもらって、子供のころに一緒に遊んでもらえて。それだけで、貰い過ぎです」
笑う。
あの日の娘と同じ顔で。
娘ではない少女が、シェーラという名前を持った、ニコラスにとっての『誰か』が笑った。
ニコラス達のいる空間が揺れて、歪む。
恐らくは外で誰かが戦っているのだろう。
だが、この狂ってしまった神と呼ぶべき何かは必至で抵抗を続けていた。壊れてしまった、もう思い出すこともできない存在理由を護るために。
「今、ミラの声がしました! お父様、ミラが助けに来てくれました!」
「……そうか」
ニコラスにもその声は聞こえていた。
シェーラの友人が、ニコラスにとっては単なる駒でしかなかった駆動鎧の少女が必死な声を上げるのを。
狂った神はそれを良しとしない。
更なる力を引き出すために、まるで肉体を潰して中にある何かを絞り出そうとするように、ニコラスとシェーラに四方から圧力が加わっていく。
「お、とうさま……!」
「くっ……!」
シェーラが必死にニコラスを抱きしめる。
僅かな魔力を放出し、充満する魔力によって消化されてしまうのを遅らせるようにと。
それもいずれ限界がきて、二人で一緒に死ぬことになる。
「……ふふっ、それが私の罪滅ぼしか」
せめて、ここで一緒に死んでやることが、この娘に対しての最期の贖罪。
そうすれば、シェーラも怒りはしないだろう。
そんな最後まで身勝手なことを、ニコラスが考えたそのとき。
何もない空間に、亀裂が走った。
縦に裂けたそこから少年の顔が覗く。
「いたっ! シェーラさん! ニコラス博士!」
恐らくは、彼がルクス。
人造兵でありながら、人を救い英雄にならんとする愚かな少年。
今となってはもう、それを卑下することもできなかった。
少年が手を伸ばす。
「掴まってください!」
「お父様! くぅっ……!」
狂った神は圧力を増し、二つの魔力源を逃がさんと必死で捉える。
もう既に願いを叶える力など失っているというのに。
それでもまだ二人の生命を薪にして、今はもう声すらも消えた者達を救おうとしているのだ。
「ぐっ……」
「お父様、護ります! シェーラが、護りますから!」
「……黙れ」
冷たい声で、ニコラスが答える。
そのまま全力でシェーラを払いのけて、押し出した。
一瞬、狂った神が戸惑うのがわかった。
ルクスと、シェーラとニコラスと、どれを胎内に留めるべきかを迷ったのだ。
「お前は私の娘などではない」
態勢を崩し、押し出されたシェーラの手をルクスが掴む。
「お父様! やだっ!」
「貴様に私を止める権利などはない。人造兵如きが……! だが」
もう、視線は彼女の方を向いていなかった。
シェーラは体力も限界だったのだろう、碌な抵抗もできずにルクスによって引き上げられていく。
「これまでの働きの駄賃だ。私の娘の名前をくれてやる、人造兵」
シェーラの声が遠くなっていく。
同時に、狂った神の怒りの声が響いた。
貴重な魔力源を奪われたことで更に壊れ、ニコラスを完全に取り込もうとしていた。
一瞬で、手足が散りとなって飲み込まれていく。
もう既に動けないその身で、首だけを上に逸らして少年の顔を見た。
「人造兵」
「ルクスです」
はっきりと、少年は答えた。その不思議な光彩の瞳には、強い意思の輝きが灯っている。
――在りし日、まだ年若い研究者であったニコラスが夢見た、その姿だ。
「忌々しいよ、貴様達は。……俺達よりも、遥かに美しく生きるじゃないか」
「お互い様です。綺麗なものも醜いものも、どっちもあるんでしょう。だって、同じ生命なんですから」
「……かも知れんな。シェーラは生かしてくれよ」
それがニコラスの最後の言葉だった。
限界が近付き、ルクスが切り裂いた裂け目ば修復されていく。
それが閉じ切ると同時に、ニコラスの身体は限界も残らないほどに砕かれて、魔力の流れとなって吸収されて消滅していくのだった。




