氷の戦乙女の暗躍
「て、てめぇ……! アイン、よくも俺たちをこんな目に遭わせやがったな!」
温泉宿の視察を終えて広場に降り立った俺の前に、泥だらけの男が血走った目で飛び出してきた。
ゴルド商会の輸送隊に混じって現れたその顔を見て、俺は少しだけ驚いた。
そこには、かつて俺を無能と罵り追放した勇者ガイルと、聖女マリア、武闘家バウクの三人が、見る影もなくボロボロの姿で立っていたからだ。
「ガイル? 奇遇だな。どうしてこんな辺境に」
「とぼけるな! お前がいなくなってから、俺たちのステータスはおかしくなった! お前が去り際に卑劣な『呪い』をかけたんだろうが!」
逆上したガイルは、懐から隠し持っていた短剣を抜き放ち、狂犬のように俺へと襲いかかってきた。
「危ない、アイン!」
隣にいたリリアが即座に氷の剣を抜こうとするが、俺は彼女を片手で制止した。
「いい、俺がやる」
かつての俺なら、分厚い本を開いてステータスを書き換える手順が必要だった。
だが、この豊かな魔力脈と極上の温泉のおかげで、俺のインク(魔力)容量はかつてないほど拡張され、能力そのものが一段階『進化』していたのだ。
俺は本を取り出す代わりに、右手の指先を空中に向けてサッと走らせた。
【世界編纂・直接入力】
その瞬間、ガイルの頭上に、彼が発動しようとしている剣技の名前が『文字列』として可視化され、空間に浮かび上がった。
『行動:死力の突撃』
「死ねぇぇぇっ、アイン!!」
ガイルが全力で踏み込んだ瞬間。
俺は空中に浮かぶ『突撃』の文字を指でサッと消し去り、別の二文字を素早く書き込んだ。
書き換えた文字は――『土下座』。
「くらえ、俺の必殺――ぶべぇっ!?」
直後、物理法則が完全に無視された。
ガイルの体は前方に跳びかかろうとした慣性を強制的に捻じ曲げられ、まるで不可視の巨人に頭を押さえつけられたかのように、俺の足元数センチのところで凄まじい勢いのスライディング土下座を決めたのだ。
ズザァァァァッ!! と地面に額を擦りつけ、ガイルが情けない悲鳴を上げる。
「な、なんだこれ!? 体が勝手に……動かねぇ!?」
「ガイル!? くそっ、俺がやるッス!」
バウクが拳を振り上げ、マリアが後方から攻撃魔法の詠唱を始める。
だが、俺の目には彼らの行動もすべて『空間の文字列』として見えていた。
『行動:右ストレート』
『詠唱:炎の矢』
俺は空中に指を走らせ、バウクの『右』を『自傷』に、マリアの『炎の矢』の文字列をグチャグチャに書き乱した。
「いっけぇぇぇ……って、あべぇっ!?」
バウクの放った渾身のストレートは、なぜかクルリと軌道を変え、自分自身のアゴを完璧に打ち抜いて気絶した。
「炎よ、敵を穿て! ……え?」
マリアが杖を振るうと、魔法陣から飛び出したのは炎の矢ではなく、大量の『生きたカエル』だった。文字列をバグらせたことによる魔法暴走だ。
「ヒィィッ!? カエル!? 嫌ぁぁぁっ!」
マリアはカエルの群れにまみれ、白目を剥いて泡を吹いて倒れた。
指先一つ触れることなく、ただ空中に文字を書いただけで、三人の攻撃は完全に無力化された。
俺は足元で土下座をしたまま動けないガイルを見下ろし、冷たく告げた。
「呪いじゃない。俺はお前たちに何もしていない。ただ、今まで俺が毎日インクを削って書いていた『ステータス補正』を白紙に戻しただけだ」
「ば、バカな……! じゃあ俺たちの絶対の強さは……」
「すべて、俺が裏で書き換えていたただの『データ』に過ぎない。お前たちの本来の実力は、Dランク程度のそこら辺の冒険者と変わらない」
突きつけられた残酷すぎる真実に、ガイルの心がポキリと音を立てて折れるのが分かった。
彼は絶望に顔を歪め、そのまま土下座の姿勢でボロボロと涙を流し始めた。
「連れて行け」
ゴルド商会の護衛たちが駆けつけ、腑抜けになった三人を取り押さえて引きずっていく。
彼らはもう二度と、冒険者として立ち上がることはできないだろう。俺の知ったことではないが。
「ふぅ……インクの消費も問題ないな。大丈夫だったか、リリア?」
俺が振り返ると、リリアはうっとりとした表情で両手を胸の前で組み、俺を見つめていた。
「ええ、アインの素晴らしい力、見惚れてしまったわ。……本当に、あの愚か者たちにはもったいない力ね」
リリアは俺に微笑みかけながら、その背後に控えていたゴルド会長へ、俺の死角から『冷酷な真紅の瞳』だけで合図を送った。
ゴルドは青ざめた顔で小さく頷き、冷や汗を拭う。
(ひ、氷の殿下のご命令通り、あの冒険者たちを底辺労働者として雇い、この領地に連れてきて正解だった……。殿下は最初から、アイン様を傷つけた彼らに『絶対的な格差』を見せつけて、心を完全にへし折るつもりだったのだ……!)
「どうした、リリア?」
「ううん、なんでもないわ! さあアイン、お仕事は終わり! 宿の最上階で、私と一緒に特製の甘いお団子を食べましょう!」
そう言って俺の腕にギュッと抱き着いてくるリリアの笑顔は、先ほどの冷酷さなど微塵も感じさせない、純粋で愛らしい少女そのものだった。
最強の力を持つ書記官と、彼を愛するあまり裏で世界すらも手玉に取る氷の戦乙女。
彼らの国造りは、いよいよ帝国の歴史そのものを巻き込む波乱の章へと突入していく。




