氷の戦乙女の出陣と、たった数文字の『弱体化(デバフ)』
「わるい、リリア。すっかり寝込んじまった」
「ううん、気にしないで。アインが私たちの領地のために頑張ってくれた証だもの」
翌朝。ベッドから身を起こした俺に、リリアは優しく微笑みかけた。
インク(魔力)の枯渇による倦怠感はまだ少し残っているが、なんとか動けるくらいには回復している。
その時だった。
ズズズズズ……ッ!
突如として、領地の地面が激しく揺れ、腹の底に響くような咆哮が外から聞こえてきた。
「なんだ……!?」
「アイン、危ない!」
窓の外を見たリリアの表情が、先ほどの甘いものから一変し、戦場の『氷の戦乙女』の顔になる。
俺も窓から外を見下ろして、息を呑んだ。
領地の境界線となる森をなぎ倒しながら現れたのは、体長20メートルを超える巨大な魔物。
漆黒の鱗に覆われた四つ足の竜――【災厄級】指定の魔物、黒地竜だった。
「……なるほど。新しく創り出した『最高純度の魔力脈』の匂いを嗅ぎつけて、山の奥から降りてきたってわけか」
「ごめんなさい、アイン。私がもっと早く防衛結界を張っておけば……っ」
「リリアのせいじゃない。俺の調整不足だ」
黒地竜の強固な鱗は、並の魔法や物理攻撃を一切通さない。勇者パーティーですら、万全の状態で数日がかりで討伐するレベルの化け物だ。
「アインはここで休んでいて。私たちの国を荒らす害獣は、私が氷漬けにしてあげる」
リリアは腰に帯びた細身の剣を抜き放ち、窓から颯爽と飛び出した。
空中で彼女の周囲に絶対零度の冷気が渦巻き、氷の魔力を纏った一撃が黒地竜の脳天へと振り下ろされる。
ギィィィィンッ!!
激しい金属音が鳴り響き、黒地竜が忌々しげに咆哮した。
氷の刃は鱗を浅く削ったものの、致命傷には至らない。
「チッ……硬いね………でも、これならどう!」
リリアは空中で華麗に身を翻し、次々と高位の氷魔法を叩き込んでいく。彼女の戦闘力は間違いなく帝国最強だ。いずれ黒地竜を倒すだろう。
だが、相手が暴れ回るたびに、せっかく書き換えた豊かな土壌や、村の家屋が破壊されてしまう。
「長期戦はまずいな……」
俺はベッドから抜け出し、分厚い本を開いた。
現在の俺のインク残量は、全体の2割程度。リリアのステータスを一時的に『神級』に引き上げるような大掛かりなバフは、コストが高すぎて使えない。
だが、【世界編纂】の真髄は、力のゴリ押しではない。
「コストを最小限に抑えつつ、最大の結果を出す。それが書記官の仕事だ」
俺は羽ペンを走らせ、ページに『黒地竜』の項目を新たに書き加えた。
【対象:黒地竜】
・固有スキル:『絶対物理耐性』『極大魔法耐性』
・鱗の硬度:S
「まずは固有スキル。この項目ごと『削除』するのはコストがかかるから……名前の頭に『非』を一文字足して、『非絶対物理耐性』『非極大魔法耐性』に変更。これで耐性は無効化される」
「次に鱗の硬度。『S』を横線で消して……『0』だ」
たった数文字の書き換え。消費したインクはほんのわずかだ。
だが、これで世界の法則は上書きされた。
「リリア! 次の一撃で決めろ!」
窓から声を張り上げると、空中のリリアがパッと振り返り、嬉しそうに頷いた。
「ええ! アインが見てくれているなら、最高のところを見せないとね!」
リリアの剣に、これまでにないほど強大な氷の魔力が収束していく。
黒地竜もまた、彼女を最大の脅威と認識し、口元に灼熱のブレスを溜め込み始めた。
激突の瞬間。
リリアの放った『氷雪の絶剣』が、黒地竜のブレスを真っ二つに切り裂き、そのまま漆黒の鱗へと直撃する。
――パァァンッ!!
先ほどまでリリアの攻撃を弾いていたはずの強固な鱗が、まるで薄いガラスのようにあっけなく砕け散った。
「グギャアアァァァァッ!?」
硬度『0』となった鱗はなんの防御力も持たず、無効化された耐性は氷の魔力を防ぐことができない。
黒地竜の巨体は瞬く間に氷漬けにされ、見事な氷像へと姿を変えた。そして次の瞬間、パリンと音を立てて粉々に砕け散り、光の粒子となって消滅したのだ。
ドロップ品として、最高級の素材である『黒竜の魔核』だけが地面にゴロリと転がる。
「……ふぅ。これで安心ね」
ふわりと地面に降り立ったリリアが、額の汗を拭う。
俺が裏でサポートしたことなど、彼女にとっては以心伝心の呼吸のようなものだ。
満面の笑みを浮かべて館へと戻ってきた彼女は、そのままベッドにいる俺の胸へとダイブしてきた。
「アイン! 見てくれた!? 私、頑張ったよ!」
「ああ、お疲れ様。見事な剣筋だった。……でもリリア、鎧が冷たいんだが」
「ああっ、ごめんなさい! すぐに着替えて温めるから、一緒のベッドに入りましょう!」
「いや、だからどうしてそうなる」
わずかなインク(魔力)で戦局を完全に支配する書記官と、彼のためなら最強の力を振るう戦乙女。
強大な魔物の襲撃すらも、俺たちにとってはただの素材集めでしかなかった。
――そしてこの『黒竜の魔核』が、後にこの辺境領に莫大な富をもたらすことになるのだが……
それはまた、別のお話。




