絶望と渇望
リリアス公国が産声を上げてから数週間。 事の始まりは、突如として領地の空に映し出された禍々しい巨大な幻影だった。
『聞け、愚かな人間ども。我は魔王。二週間後、我ら魔王軍がこの地を蹂躙する。無条件降伏し、我が軍門に下るならば命だけは助けてやろう』
魔王からの、傲慢極まりない死の宣告。
当然、俺たちが降伏など選ぶはずもない。迎撃の準備を整え、そして運命の二週間後を迎えた。
白昼堂々、太陽の光が漆黒の帳に覆い隠される。 地平線を黒く染め上げて迫るのは、五万の狂暴な魔物軍。
そして上空には、空間を歪めながら四つの影が実体化していた。
「ククク……愚かな選択をしたな。後悔と絶望の中で死ぬがいい」
見下ろしてくるのは、禍々しい角を持った魔王本人。
そしてその横に控える三体の魔族から感じるオーラは人族の英雄クラスが数名がかりで挑む【特級】、あるいはそれ以上の力を感じる。
「ということは魔王はそれ以上……【災害級】というわけか……」
アインがそう呟くと、突然魔王が懐から何かを空に掲げた。
「神話の獣よ。貴様がこの地にいることは把握済みだ」
「魔界の底より発掘した『神縛の獄石』。神話級の力を完全に封殺することはできんが……この街を人質に取れば、貴様は動けまい?」
宝玉から放たれた結界が、領地全体をドーム状に覆い尽くそうと迫る。触れれば街が腐海に沈む凶悪な呪い。
「お兄さん! ワタシ、あの結界を抑え込むのに集中する! だからあいつらは……!」
「ああ! 街のことは頼んだ、シリウス!」
神話級の力が結界の相殺に釘付けにされ、実質的に無力化されてしまった。
つまり俺たちは、残された戦力だけで五万の軍勢と幹部と思われる魔族三体と魔王を相手にしなければならない。
「行くぞッ!!」
ヴァルガスとエレインが咆哮と共に前線へ飛び出す。
俺も自身のステータスを書き換え、リリアと共に幹部たちへと肉薄した。
だが――戦況は、あまりにも一方的だった。
「ガハッ……! ば、馬鹿な……俺の拳が、全く通じねえ……!」
「きゃあっ……! 魔法が、全て喰われて……!」
【天災クラス】であるはずのヴァルガスとエレインが、幹部たちの次元の違う連携と五万の物量の前に完全に制圧され、血まみれで地に伏す。
そして、俺とリリアも完全に分断されていた。
「ぐ、あぁぁぁっ……!」 俺は地面に這いつくばり、巨大な魔物数体と幹部の重力魔法によって四肢を完全に押さえつけられていた。
指一本動かせず、無理なステータス書き換えの連続で脳の処理領域はパンクし、魔力も完全に底を突いている。
「アイン……ッ! 離して、アインに触るなァッ!!」
リリアが俺を助けようと、血を吐きながら立ち上がる。 だが、その背後から特級幹部の一体が無慈悲な刃を振り下ろした。
ガァァンッ!!
「あ、が……っ」
強固な氷の鎧が紙屑のように砕け散り、リリアの体が宙を舞って冷たい地面に叩きつけられる。
幾度となく斬り刻まれ、彼女の美しい銀髪は赤黒い血に染まっていた。
もはや立つことすらできないリリアの首元へ、幹部がゆっくりと刃を振り上げる。
「やめろ……! やめてくれ! リリアに、触るなァァァッ!!」
俺は喉が裂けるほど絶叫した。
だが、体はミリほども動かない。
俺の目の前で、最愛の妻が殺されようとしている。何もできない。
俺のステータス改竄など、この理不尽な暴力の前には何の役にも立たない。
(守る。絶対に、リリアだけは何があっても守り抜く……! 俺の命を、魂を全部引き換えにしてでも……!!)
世界がどうなろうと知ったことか。
俺はただ、彼女を失いたくない。 心の底からの、限界を突破した強烈な『渇望』
その極限の意志が引き金となった。
ピコンッ、と。 絶望の戦場に澄んだシステム音が鳴り響く。
【条件を満たしました。固有スキル『書記官』が上位スキルへと進化します】
【『領民録』が解放されました】
時が止まったかのような思考の海で、俺はその能力の全容を瞬時に理解した。
俺は、刃を振り下ろされそうになっているリリアを見つめた。
「リリア。リリアは俺の、たった一人の愛する存在だ」
俺は地を這う指先で空中に触れ、リリア、ヴァルガス、エレイン、そして街で震えている兵士たち全員のステータスへアクセスした。
これまでの俺のスキルは、無理な書き換えにより魔力を著しく消費し、スキルを解除すれば元の数値に戻ってしまうものだった。 だが、新能力『領民録』は違う。
俺が『自身の領民』として心から認め、相手もまた俺に強い信頼を向けている場合――その対象のステータスを、極めて少ないインクで、無造作かつ『永久的』に底上げできるという、次元の違うチート能力。
引き上げられる能力の限界値は、対象自身の『器』と、俺との『絆の深さ』に完全比例する。
【対象:リリア(絆:計測不能)】
・状態異常(瀕死・負傷)を完全排除。
・全ステータスを『器の限界値』まで永久解放。
「――【ステータス改竄】」
俺がそう呟いた瞬間。 幹部の凶刃がリリアの首に届くコンマ一秒前。
彼女の背中の致命傷が一瞬にして完全に塞がり、立ち上る魔力が【英雄クラス】という枠すらもぶち破り、さらに高みへと到達した。
「……え?」
つい先程まで処刑しようとしていた幹部の手が、絶対零度の冷気によってピタリと停止する。
「アイン……」
リリアがゆっくりと立ち上がる。
そのサファイアの瞳には、神話すら凍りつかせる絶対零度の光が宿っていた。
同時に、遠くで膝をついていたヴァルガスとエレインからも、本来の【天災クラス】を遥かに超える爆発的な闘気が噴き上がる。
「ははっ……なんだこりゃあ! 体の奥底から、無限に力が湧いてきやがる!」
「アイン……貴方、またとんでもないデタラメをなさいましたわね?」
彼らもまた、俺との確かな絆によってステータスが永久解放され、極限状態へと至っていた。
「……あり得ん。ただの人間が、一瞬にしてこれほどの……ッ! 殺せ! 奴らを今すぐ肉片に変えろォォッ!!」
余裕を失った魔王が絶叫し、五万の魔物が襲いかかってくる。
だが、リリアはただ冷たく、汚物を見るような目で彼らを見据えた。
「よくも、私のアインを……あんなに傷つけてくれたわね」
彼女がスッと右手を横に薙ぐ。
ただそれだけで――大気が凍結する甲高い音と共に、迫り来ていた三体の魔王軍幹部が、一瞬にして『絶対零度の氷像』へと変わり果てた。
「な、に……?」
魔王が驚愕に目を見開く。
一切の詠唱も魔法陣もない。
底上げされたリリアの魔力は、ただの意思一つで世界を凍てつかせる神話の領域へと足を踏み入れていた。
絶体絶命のピンチから一転。
愛と絆によって真の覚醒を遂げた俺たちの反撃が、ここから幕を開けるのだった。




